complex 4
病院を出た直後の潮風に微かな甘い香り乗り、彼岸はすっと前に屈む。風を切る音がすぐ真上から聞こえた。
「随分とダイナミックな来院じゃねぇか」
浅黒い肌と長い銀髪の少女が立っていた。フリルのついた黒いドレスにショッキングピンクのエプロンを締め、華奢な腰を強調していた。翠の双眸は円く、不意打ちを企てたにしてはまるで攻撃性を示していない。人違いかと関心を失いかけたが、無表情の小柄な少女はまた彼岸に向かって跳んだ。底の厚いラウンドトゥパンプスが肘に当たる。外見からは想像のつかない力強さに彼岸は呻いた。煌めく銀髪が宙を舞い、円い目は彼岸を狙う。雰囲気や目鼻立ちが昨日撃ち殺した男によく似ている。
「兄の仇討ちか?」
肯定代わりの一撃を防御するが、骨に響く。
「砂の城で寝てるさ。永遠の睡眠ってやつだな」
同じ蹴り技が繰り出され、身を翻して躱すと少女の小さな後頭部を掴んで流れるままにアスファルトに叩き付けようとしたが、直前で思い留まり弱く額を押し付ける。指に銀髪が絡み、少女は暴れることもしなかった。
「二度目はねぇぞ」
突き飛ばすように放すと、指に銀糸が残った。翠の双眸は鏡のようだった。故郷の伝統工芸品の無表情な人形を思わせ、不気味さに手に残る銀色の毛を捨てた。両手を打ち合わせ、少女に背を向ける。潮風に吹かれながら駐車場を通り抜け、大きな通りに出るつもりでいたが近くの車の窓が開いたため足を止めた。道を訊かれるのならこの辺りについてそこまで詳しくない。
「何々、キャットファイト~?」
白髪に黒いフレームの眼鏡を掛けた泣きぼくろの青年が窓枠に腕を掛け、話しかける。
「気安く話しかけんな」
「待って、待って。いや、あっちの子さ、ボクん家の…そう、娘でね。どうだった?ストリートファイターになれそう?」
馴れ馴れしい態度に嫌気を催しながら、返答をはぐらかす。
「ちょ、待って、待ってったら。急ぎの用事?家族が危篤とか?そりゃマズいね」
窓枠から伸びた手が、少女の蹴りによって痛む腕を掴んだ。反射的に振り払ってしまう。
「関係ねぇだろ」
「でも貴女に危篤になりそうな家族はいませんね?言っても同棲中の婚約者か…お仲間か…今入院中の男の子か…」
思わせぶりに白髪の男は彼岸から目を離した。それからゆっくりと病院の建物に移る。窓を段々と見上げていく。紫鴉の入院している5階東側の端の窓に止まる。
「人形が…帰ってこなくてさ。復讐って痛み分けってコトだよね?…彼岸さん」
白髪の男は穏やかな声で、微笑さえ湛えていた。彼岸は振り向いた。人形のような少女がまだ居るのか立ち去ったのか、この地点からは確認出来ない。踵を返す。元来た道を辿って紫鴉の病室に向かった。エレベーターを待てず、非常階段を駆け上がる。脹脛が張った。目的の病室に飛び込み、予想通りに華奢な少女が立っている。長い助走をつけたまま銀髪の女に掴みかかり、回し投げながら自分ごと壁に叩き付けるが柔らかな肉体とふんわりとした黒いフリルに守られた。
「うっわ、びっくりした」
真横のベッドにいる紫鴉が身を縮めて飛び上がる。すぐには起き上がれなかった。蹴られた腕が重く痛む。力の抜けた女の細腕が床に放られている。
「大丈夫かよ?」
「こっちの台詞だ。何かされなかったか」
紫鴉は思い切り顔を顰めて彼岸へ頷いた。
「知り合いじゃないの。あんたのこと探してた人じゃん。喧嘩した?ヤバめのやつ?」
グラビア雑誌を閉じ、倒された女を覗こうとするが点滴のチューブが許さなかった。騒ぎを聞きつけながら看護師たちが集まってくる。
「どうすんの?」
息をしているのか否かも分からない銀髪の少女を担ぐ。看護師に囲まれたが、帰ると通せば故郷と違い医療保険制度の甘いこの街では尊重される。
「邪魔した」
タクシーに16、7の女を投げ込み、運転手へ自宅マンションのアドレスを伝える。胡散臭い男は見つからなかった。慈悲深い同棲相手は反対も締め出しもしないだろうことを考え、少し胃が重くなった。