「Wake up,Boy!」(2)
スヴォーロフ・プロの社屋へは徒歩二十分ほどで着いた。
近くまでバスも通っているが、片道二百十円の出費は惜しい。加えて、陽子から『もやしっ子』と呼ばれたことを気にしてもいた。
――僕だって夏冬関係なく毎日二十五キロを自転車で走破してるんだぞ。
肩を怒らせながら、三階建てのビルの外観を眺める。
ビルというよりその外観はボロアパートだった。
――【株式会社 スヴォーロフ・プロダクション】――
建物を囲むブロック塀にはめ込まれた真鍮製の表札が、かえって建物のみすぼらしさを強調していた。
「うわぁ、ボロい……」
思わず口走ると、突然背後から肩を叩かれた。
「なーにがボロいって? 変態くん」
「ひっ!」
声の主は悲鳴を上げる正通の前に素早く回り込んだ。
「あ、神岡……さん……おはよう」
声の主は陽子だった。
薄手のボタン付きベストに長袖のTシャツ・デニムのショートパンツにニーソックスという服装は、ブレザーにスカートを身に着けた昨夜の姿とは印象が違って見えた。
「おはよう。部外者の君が何しに来たの? 事務所に何か用?」
建設現場で話した時よりは幾分マシだが、それでも陽子は迷惑そうな表情だった。
「昨日、預かってもらった自転車を取りに来たんだけど……さっき会社に電話したら、ユミさんって人が『待ってる』っていうから」
「君ってずいぶん気が短いんだねー。直ったら家まで届けるって言ったのにさ。それに、こんな時間に来たって自転車が直ってるわけないじゃない。ほら、あれ見てよ」
陽子は呆れかえった様子で塀の内側に立てかけられた正通の自転車を指差した。
「あっ……ドロメアス!」
「ドロメアス……何それ?」
「僕が自転車につけた名前。命名の由来は……」
誇らしげに語ろうとする正通の言葉を陽子が手で遮る。
「はいはい、ペンタメローネの曲でしょう。ずいぶんマニアックな曲が好きなんだね、君」
「あの曲の良さがわからない奴は真のファンじゃないよ」
拳を握って熱く語る正通を尻目に、陽子はすたすたと歩いて塀の内側へと入って行った。
「分かったから早く中に入ってよ、外にいたら汗かいちゃうよ。ほら、早く早く」
建物の陰から陽子が手を振って急かす。話の腰を折られた正通はしょんぼりとして陽子の後を追った。
陽子が重い金属製のドアを開けて中へ入ると、正通もそれに続いた。
「おはようございまーす。神岡陽子と部外者一名、入りまーす!」
「おはようございます。さっきお電話した江原といいま――」
次の瞬間、正通は目の前が真っ暗になった。
「おっはよー! 待ってたのよぉ。早く上がって、上がってぇ」
「もがッ……!」
顔に押し付けられる柔らかな感触と、鼻腔をくすぐる甘い香り。そして、肩と背中に伸びるしなやかな二本の手。
――もしかして……この感触は……もしかして……!
「思った通りのかわいい男の子でよかったぁ……ふふふっ」
心拍数と体温が急上昇し、もう何も考えられない。正通はされるがままだった。
「はっ!」
突然背後から聞こえる掛け声と共に、背中に激痛が走る。
瞬時に脚の力が抜け、正通はその場に崩れ落ちた。
「ぐはあぁぁッ……!」
「ユミさん! 変態にエサをやらないで! 居ついちゃったら困るでしょう!」
人を犬猫扱いするな……と正通は言いたかったが、背中の痛みでそれどころではない。
「ああん、キミぃ、大丈夫ぅ? 陽子ちゃんたら、いきなり肘打ちするなんてぇ……乱暴なんだからぁ、もうっ。それにっ……私のムネはエサじゃありませぇん。た・か・ら・も・の……っ! うふふっ」
そう言って胸の大きな女性――ユミは両手で乳房を寄せ、その大きさを強調して見せた。
「はいはい、胸が大きい人はいいねー。とりあえずこの変態を収容しましょう」
――ああ、やっぱり……おっぱいだったか。あれが……あれが、おっぱいか……。
正通は陽子の手で乱暴に靴を脱がされ、両足を掴まれて室内に引きずられていった。
みすぼらしい外観とは違って、建物の中は極めて清潔で新しい印象だった。
清掃と整理が行き届いた室内は思いのほか広く感じられる。
元は三つあった部屋を改造し、一つにつなげてあるようだ。入ってすぐ応接室があり、奥に事務所やロッカーがあった。
正通は応接室のソファに座らされ、陽子と共に飲み物が運ばれて来るのを待っていた。
「はぁい、どうぞっ。ガムシロップはここにあるわ」
ユミはテーブルにアイスティーのグラスを三つ置くと、正通にウィンクしてみせた。
テーブルを挟んで正通の向かいに座っていた陽子は小さくため息をつくと「ありがと、ユミさん」と言ってストローの袋を破った。
「ありがとうございます……」
正通は顔を赤くしながら、隣に座ったユミを横目で見た。
「ふふ……どういたしましてっ」
山城ユミは二十九歳を間近にした妙齢の女性だった。
ウェーブのかかった長い髪を後ろでまとめ、はち切れんばかりの豊満な肉体に紺のレディスーツをまとっている。
リムレスの眼鏡に飾られた大きな目に美しいあごのラインが印象的な彼女は、まさしく美人秘書のイメージそのものだった。その立ち居振る舞いは別として……
「うふふ……来てくれてありがとっ、江原クン。陽子ちゃんも、今日は来ないと思ってたのにぃ。独りぼっちで寂しかったから、来てくれて嬉しいわぁ」
「いえ、そんな……」
正通は赤い顔を更に赤くして、アイスティーを一口飲んだ。アールグレイのフルーティーな香りが口の中いっぱいに広がり、熱くなった身体に心地良い清涼感を与えてくれた。
「ちょっと、ユミさん、さっきも言ったでしょ。変態に餌付けしちゃ駄目だって。癖になったら困るじゃない」
陽子はユミが発した『来てくれて嬉しい』との言葉に照れ笑いを浮かべながらも、正通への悪口は忘れていなかった。
「ごめんね、江原クン。陽子ちゃん、こんなだけどホントはとぉってもいい娘なのよぉ。だからぁ、誤解しないでね。お願い」
「は、はい……」
「……ところで江原くん」
苦笑しながらアイスティーを飲んでいた陽子がもういいだろう、とばかりに口を開いた。
「自転車を引き取りに来たんでしょう? お茶を飲んだらもう帰って。君のうち、ここの近くでしょ?」
「ええっ、ちょっと待ってぇ!」
ユミが大げさな声を上げて身を乗り出した。
「だってユミさん、部外者をいつまでも……」
「江原クンのお家、ここの近くなのぉ? だったらぁ、いつでも遊びに来れるわねぇ」
――そこかよ!
正通の手を取って喜ぶユミに、陽子と正通は心の中で同じ突っ込みを入れた。
「ところでユミさん。社長は何時頃に来るって言ってたの?」
「十時前には出社するって言ってたからぁ、もうすぐ着くはずよぉ……江原クンの自転車を修理に出して、武井さんのいる病院に向かうって言ってたわぁ。陽子ちゃんもお見舞いに行ったらいいんじゃなぁい?」
「うん、分かった。それじゃ、江原くん。社長が来る前に帰って。本当は一般人が出入りする所じゃないんだから、ここは」
陽子はためらいがちに言うと、まっすぐ正通の目を見た。
「うん。分かったよ、神岡さん」
ユミはもう口を挟もうとはしなかったが、外から聞こえてきた車のエンジン音に顔を上げた。
「……あらぁ? 帰って来たみたぁい」
「仕方ないわね。江原くん、社長にきちんと説明してから自転車を引き取ってね」
陽子にそう言われて、正通は無言で頷いた。