「Wake up,Boy!」(1)
正通は目覚まし代わりに使っている携帯電話のアラームで目を覚ました。
流れるメロディはペンタメローネの『地図なき道』。
この曲を選んだ理由は、冒頭に「目を覚ませ」という歌詞があるからだった。憧れの疾風なつきに「目を覚ませ」と言われて、起きないわけにはいかない。
ボタンを押してアラームを切ると、液晶画面はいつもの待ち受け画像に変わる。
小さな画面の中で微笑むなつきに微笑み返すと、正通はそっと画面を閉じた。
時計の針は午前八時四十分を指していた。
昨晩が夜勤だった両親は午前五時頃に帰宅し、そのまま就寝している。昼までは起きない。
正通はあくびをしながら三畳の狭い自室を出て、自分の朝食兼両親のブランチを作ることにした。
冷蔵庫の食材は乏しかった。卵があればベーコンエッグかスクランブルエッグを作ろうと思っていたが、卵は二つしかなかった。
「サンドイッチでいいか」
チルドパーシャルにスライスチーズとロースハムを見つけ、野菜室にレタスとキュウリを見つけた。
八枚切りの食パンが一斤あるので、一人につき二枚使うとして、これなら問題ない。
手早く三人分のサンドウィッチを作りインスタントのコーヒーを淹れると、正通は居間の食卓に着いてテレビを点けた。
画面に映ったのは幼稚園の映像だった。
特に興味のない話題だと思い、チャンネルを変えようとしたが、ピアノを弾きながら園児と一緒に笑顔で歌を唄う男性の映像を見て、動きを止めた。
「あれ? この人……」
――『Cuore』(クオーレ)代表・真鍋公次社長――
画面下に映し出されたテロップに彼の名前が表示される。
やがて映像が切り替わり、スタジオ内で女性キャスターと向かい合って座る真鍋の上半身がアップで映し出された。
正通はこの人物――真鍋公次を知っていた。
五十四歳の真鍋は背が高く、半ばグレーの髪をオールバックにまとめた、ハリウッド俳優のような雰囲気を持つ美丈夫だった。
ダンディとはこういう人の為にある言葉なんだろう――正通は素直にそう思った。
仕立ての良いスーツをカジュアルに着こなす姿は、同性でまだ若い正通にも魅力的に感じられた。
キャスターによる真鍋に対しての質問が始まった。
「真鍋社長はあのペンタメローネが所属する芸能プロダクション、『クオーレ』を経営する傍らでこのように全国の保育園や幼稚園、学校に寄付や音楽など芸術を通じての教育活動、海外での慈善活動をしてらっしゃいますが、社長がこういった活動をしようと思ったきっかけは何だったのでしょうか?」
クオーレはペンタメローネが所属する新興の芸能プロダクションだった。
真鍋は慈善活動家としても有名であり、正通は報道番組などで真鍋の姿を何度か観ていた。
真鍋はキャスターの質問にゆっくりと頷き、その口を開いた。
「私は高校時代から音楽活動とボランティア活動をしていましたが、大学進学後は国外のボランティア活動へ参加するようになりました。ですが、若く資金も乏しかった私の活動には限界があり、救えるはずの命を救えない……そんなことが何度もありました。その時の悔しさが今の私の原点です。
もっと資金があれば、もっと力があれば。もっと仲間がいれば、もっと多くの命を救える。もっと多くの人を笑顔にできると。ずっとそう思っていました。ですから私はこれらの活動を、クオーレ設立時から重要な柱と位置付けています」
何度も頷きながら話を聞いていたキャスターは、一区切りついた所でフリップを取り出した。
「四年前から社内に福祉事業部を立ち上げたクオーレの真鍋社長ですが、それまでも非常に多くの地域で、多彩な活動をしてらっしゃいますね」
そこには三十年前から続けられている真鍋とクオーレが携わった慈善活動の実績が記されていた。
チャリティーコンサートに支援金や物資の寄付、医師の派遣やボランティアとしての社員の派遣など、その活動内容は多岐に渡る。
四年前から本格化したクオーレの慈善事業は、所属タレントの人気も手伝って大きな成果を上げていた。
「こちらをご覧いただくと分かりますように、真鍋社長は日本のみならず東南アジアや中東・アフリカ・ヨーロッパにアメリカと、世界各地で様々な活動を続けてらっしゃるわけですね。そして、これまでの収益の半分近くを世界各地の児童施設や紛争地・災害の被災地などに支援金や物資として送ってきました。本当に大変なことだったと思いますが、その時のご苦労などをお聞かせいただけますか?」
真鍋は大きく頷くと、再び口を開いた。
「そうですね。『苦労』とおっしゃいますが、ある程度の力と資金を持つ者が誰かの為に苦労をするのは当たり前のことだと私は考えています。ですから『苦労』ということに関して、私から特に申し上げることはありません」
「……本当にご立派だと思います」
キャスターの言葉に、真鍋は苦笑しながら首を横に振った。
「いえいえ、たった今申し上げた通り、当たり前のことだと思っていますので。私の考えや、こうして私がテレビに出演することを偽善だと仰る方もいらっしゃいます。ですが、活動がメディアで紹介されなければ正当に評価されることが少ないのがボランティアの実情です。
ですからテレビ出演のオファーがあれば、私は可能な限りお受けしています。おかげさまで当社所属のタレントには及びませんが、私も有名人の仲間入りができました。本当にありがとうございます」
真鍋の軽いジョークにキャスターが顔をほころばせる。
「よかった、笑っていただけて。そういうわけですので、私はもう十分有名人になりました。今後この番組でボランティアの特集がありましたら、私ではなく日の当らない場所で一生懸命活動している人達を紹介してください。貴重なお話がたくさん聞けるはずですよ」
そう言って真鍋はにっこりと微笑むと、キャスターも同じように微笑んだ。
「はい。それでは早速プロデューサーに相談いたします。真鍋社長、今日は本当にありがとうございました」
「いえいえ。こちらこそ本当にありがとうございました」
真鍋の丁寧な語り口と話しやすい雰囲気には、キャスターも大いに助けられたようだ。インタビューが終わった後に映った彼女の表情は自然な笑顔だった。
「あっ……しまった、録画しとくんだった」
インタビューの後でエンディングテーマと共に流れるのは、ペンタメローネも参加した今年のチャリティーライブの映像だった。ライブ終了後の、メンバーとスタッフのやり取りなども断片的に映し出される。
「この分だと……ペンタメローネの映像は番組前半に流したんだろうな」
正通は小さくため息をつくと、サンドウィッチを一口かじった。特に工夫もせずに作ったので、味はそれなりだった。
――今日は学校もバイトも休みだし、愛車で出かけ――。
愛車を修理に出したことを思い出し、しょんぼりと首を垂れた。
正通はため息をつきながらカップに口をつけたが、自転車を修理に出すに至った経緯を思い出し、コーヒーを吹き出した。
――そうだった。昨日はあんなことがあったんだった……
テーブルにこぼしたコーヒーを拭きながら、正通は昨晩の出来事を思い出し、慄然とした。
誰に話しても簡単には信じてもらえないであろう、昨晩の出来事――。
ひょんなことから壮絶な銃撃戦に巻き込まれ、危うく殺されるところだった。
そして、その後で知った、もう一つの世界。
メディアが決して報じることのない……『テレビの裏側』。
しかも、人が死ぬ場面と死体を目撃した後で、その当事者達と食事を共にし、食事代まで出してもらった。
「払うのは俺達じゃないから」と長坂は言っていたが、これはまずいことなのではないかと正通は思い始めた。
――大変な人達に借りを作っちゃった……!
正通は半ば呆然とした。
彼らの活動は警察に黙認されているとのことだったが、それでも彼らは影の世界に生きる人間達だ。これ以上関わるのはよくない。
せめて自転車の修理代だけは自分で負担するようにしよう、と思い直した。
正通は朝食を途中にして部屋へと戻った。
制服のポケットから二枚の名刺を取り出す。そのうちの一枚をくれた武井の笑顔が頭をよぎった。
――そういえば、武井さんは大丈夫だろうか。そのことも聞いておこう。
名刺に記された会社の電話番号へ急いで電話をかける。
電話をするには時間が早いかとも思ったが、連絡が遅れて後の祭りになってはいけない。
呼び出しのベルが六回鳴っても相手が電話に出る気配はない。
七回、八回、九回。正通が電話を切ろうとした時、ようやく電話がつながった。
「はぁーい、スヴォーロフ・プロでございますぅ。ただ今ぁ、留守にしておりますのでぇ、ご用件の方はピーッという発信音の後に、メッセージをお願いいたしまぁす。ぴい~っ……」
妙な留守録メッセージだった。
妙に甘ったるい女性の声。更に、どう考えても発信音の部分は口で『ぴい~っ』と言っている。恥ずかしくないのだろうか……。
正通はとりあえずメッセージを録音することにした。
「……昨日お世話になりました、江原と申しま……」
そこまで話したところで、突然通話口からハイテンションな声が聞こえてきた。
「いやぁーん! ヒデちゃんが言ってた男の子ってキミのことぉ? もぉ、会社に直接お電話くれるなんてぇ、ユミ……とぉっても嬉しいっ!」
「えっ……あの……」
絶句する正通に対し、声の主は更に言葉を続ける。
「あのね……昨日から私一人でお留守番しててぇ、とぉっても寂しいのぉ。ねぇ、君……だからぁ、遊びに来てくれるよね……お願ぁい」
「間違えました、ごめんなさい!」
正通はそう言って反射的に電話を切った。
「な……何だったんだ、今のは一体……ヒッ!」
動揺収まらぬ正通に追い打ちをかけるように、携帯電話の着信メロディが鳴った。
恐る恐る携帯電話を手に取ると、表示された発信元の電話番号はたった今かけた会社の番号だった。
「ヒィィ! しまったぁぁ!」
江原家の電話と違い、スヴォーロフ・プロの電話には番号表示機能がついているらしい。正通は諦めて電話に出ることにした。
「は、はい……江原です」
通話口から聞こえてくるのは、やはりあの甘ったるい声。
「ちょーっとぉ! いきなり切るなんてレディに対して失礼よぉ。ユミ、とぉっても傷ついちゃったんだからぁ。もう少しだけお話しましょう。ねっ! (はぁと)」
「は、はい……ごめんなさい……」
――ちょっと待て、今『はぁと』って自分の口で言ったぞ、この人。
「……えーと。昨日、そちらの長坂さんに預かってもらった自転車なんですが……」
正通が話を切り出すと、ユミと名乗る女性は意外そうな反応を示した。
「えーっ、自転車? それがどうかしたのぉ?」
「あ、はい。こちらで修理することにしますのでどこに置いてあるか教えていただければ取りに行きたいんですけど……」
正通はなるべく自分のペースを崩すことなく話すよう心がけた。
「キミの自転車だったらぁ、ここにあるわよぉ。でもぉ、キミが修理代を払う必要はないのよぉ。無理しないでこっちに任せればいいじゃなぁい」
「あ、いえ……昨日は夕食をごちそうになりましたし、これ以上お世話になるわけには。それに僕の自転車ですから、自分で面倒を見たいと思って」
なんとかそれらしく言葉をつなぐ。
「うふっ……真面目なのね、キミ。そういうの……嫌いじゃないわ。それに、自分のマシンに愛情を注げる人って……すてき。会社の住所はキミの持ってる名刺に書いてあるわ。それじゃ、キミのこと……待ってるからね」
そう言うと、ユミは一方的に電話を切った。
正通は顔を真っ赤にしながら居間に戻り、食べかけのサンドウィッチとぬるくなったコーヒーを腹に入れて身支度を整えた。
食卓には二人分のカップを置き、「サンドイッチが冷蔵庫にあるよ。ちょっと出かけます 正通」と書いたメモ用紙を貼っておいた。
「さて、行くか。会社の場所は……えっ」
名刺には杉並区内の住所が記されていた。正通の家がある練馬区上石神井からは二キロほどしか離れていない。
昨晩、送ってもらった時にこちらの住所は知られている。向こうがその気になれば、すぐにこちらへ来ることが可能だ。
「やっぱり、やばいかも……」
誰に言うともなくつぶやくと、正通はスニーカーを履いて玄関を出た。