「ようこそ、テレビの裏側へ」(3)
時刻が午後一〇時半を回る頃、正通達は小さなインド料理店で遅い夕食をとっていた。
狭い店内にはスパイスの香りが満ち溢れ、独特のインドミュージックが流れている。
閉店時間が近いこともあり、他に客はいない。
「辛い……辛いよ、これ。いや、おいしいのは分かるんだけど……辛いよ、これ」
四段階の辛さから正通が選んだのは、下から二番目の辛さ『マイルド』だった。
いつも食べるカレーが中辛なので、インドカレー本来の辛さを勘案してこの辛さを選んだつもりだったが、出てきたカレーの辛さは彼にとって激辛以上の辛さだった。
「嘘でしょ? 下から二番目の辛さだよ?」
信じられない、といった表情を浮かべながら、陽子がスプーンを口に運ぶ。
「ラッシー飲みながら食えば大丈夫だよ、江原君」
長坂がナンをちぎりながら、助言をした。
カレーの器が三つにサフランライスの皿が一枚、カットされたナンが山と盛られたバスケットが二つ。更に水のグラスとラッシー(ヨーグルトドリンク)のグラスが三つずつ。加えてサラダの器が三つ。
小さなテーブルの上は満杯となっていた。
「あ、ホントだ。辛さが少し和らぎますね」
ラッシーを一口飲んで、正通が言った。
「だろ?」
その傍らで陽子は辛さをものともせず、わっしわっしとスプーンを口に運んでいる。辛さは一番上の『ベリーホット』だった。
「神岡さん……全然平気そうだけど、辛くないの?」
「なーに言ってんの。カレーは辛いのが当たり前でしょうが。江原くんはお子様だね。お子様ランチがメニューになくて、残念だったねー」
正通に嫌味を言うと、陽子はナンを一切れつまんでかじった。焼きたての香ばしい匂いがバターの風味と共に、口の中いっぱいに広がる。
幸せそうにナンをほおばる陽子を見ていると、抜き身の刀のようだった先ほどの顔つきがまるで嘘のようだった。
「すいません、ガーリック・ナンおかわりください!」
いつの間にかバスケットの中身を空にしていた長坂が店員に声をかける。
「ハーイ、少々お待ち下さーい。失礼しまーす」
愛想の良いインド人の店員がすぐにやって来て空のバスケットを片づける。
この三流アイドルにもこれくらい愛想があれば、少しは人気が出るかも知れないのに、と正通は思った。
「ちょっと。何、ジロジロ見てんの。いやらしいなぁ、変態くんはっ」
視線を感じた陽子が呆れた様子で言葉を発した。
「……お願いだからその呼び名はやめてよ……」
ふと、正通は不思議に思った。
ルックス以外はとてもアイドル向きとはいえない彼女が、アイドルとして活動している理由が分からなかった。
「すみませーん。今度はキーマカレーください。ベリーホットで!」
いつの間にか陽子が食べていたカレーの器は空になっていた。
店員は「ハーイ」と返事をすると、すぐにやって来て空の器を片づける。
「よく食べるね、神岡さん。しかもあんな辛いの……」
正通はカレーとサフランライスをようやく半分ばかり食べ終えたところだった。
「この世界、体力勝負だからね。君のような貧弱もやしっ子にはわからないだろうけどさ。あっ、いけない! 栄養たっぷりで安さ抜群のもやし様に失礼だった」
「は……はは……」
なんでこうも辛辣なことばかり言えるんだろうか、この娘は。力なく笑いながら、正通ははたと気がついた。
――『辛辣』なことばかり言っているから、口が『辛い』ものに慣れてるんだな……。
「こら。陽子ちゃん、メシ食ってる時に喧嘩を売るのは駄目だよ!」
「はぁい。ごめんなさーい」
そうこうしている間に、長坂が注文したガーリック・ナンと陽子が注文したキーマカレーが運ばれてきた。
「あー、辛くておいしい!」
激辛のカレーをおいしそうに食べる陽子を見るにつけ、「笑っている分には可愛いのに」と正通は思った。
この笑顔を見ている分には、とても彼女が何人もの人間を殺した処刑人だとは思えなかった。
「江原君、ナンも食いなよ。うまいぞ」
正通は「あ、どうも」と言って長坂の差し出したバスケットからナンを一切れ取り、口に運んだ。香ばしく焼かれたナンにニンニクの風味がよくマッチし、もっちりした食感がたまらない。
「長坂さん、私にもくださいよぅ」
言うが早いか、陽子もガーリック・ナンに手を伸ばした。
正通は陽子がナンを食べる姿にしばし見とれていた。
「……グルメ番組」
正通がぽつりと言った。
「……ほぇ?」
ナンをほおばりながら、陽子が目を丸くして正通を見る。長坂もスプーンを置き、口をもぐもぐさせながら正通の顔を見た。
「神岡さん、グルメ番組に出ればいいのに。おいしそうに食べるんだからさ」
「当分テレビは無理。この間、ヒーロー番組の主役と喧嘩したから」
「あ、そうなんだ……」
こともなげに言う陽子に対して、正通は気の抜けた返事をするしかなかった。
「絶賛干され中なんです、私」
陽子はそう言ってカレーを口に運ぶ。
その後、店員がオーダーストップを知らせるまで三人は無言のまま食べ続けた。
そうしているうちに――正通は、影の世界に生きる人間と共に食事をしているという異常な状況を、いつしか忘れていた。
武井は縫合手術を終え、個室で横になっていた。ベッドの隣では岩本が椅子に腰かけている。
「撃たれたのは久しぶりです。我慢していましたが、何度経験してもやはり……銃創というのは痛いものですね」
「撃たれて痛いのは当たり前だ。もう少し自分を労われ。神岡君の為にも」
岩本は強い口調で言い放った。
武井はその言葉にも特に反応を見せず、左腕から延びる点滴の管をじっと見つめていたが、思い出したように口を開いた。
「そうだ、社長。お腹が空いたでしょう。この辺りはまだ、営業している店も多いですよ。何か召し上がってはいかがですか?」
岩本は額に手をやると、大きくため息をついた。
「君は……そうやって神岡君を裏切ってばかりだ。彼女の気持ちを分かっているなら、なぜそれに応えてやろうとしない?」
「僕は愛想の良さと人殺しだけが取り柄の、どうしようもない人間ですよ?」
屈託のない、少年のような笑顔――岩本にはそれが無性に腹立たしかった。
「君はそれがあの娘の為だと思っている。だが、あの娘の気持ちを考えたことはあるか?」
「もちろん。何度も考えました。何度も考えた上でのことですよ」
岩本はぐっと拳を握り締め、席を立った。
「そうだろうな……君はそういう男だ。そんなところさえなければ、君は……本当に素晴らしい人間なのにな。私はそれが残念でならない」
吐き捨てるようだった岩本の口調が、途中で無念さをにじませるものに変わった。言い終わって、彼は武井の異常な行動に気がついた。
「……待て、何をしている!」
武井は点滴の針を引き抜こうとしていた。岩本は素早く武井の手を掴み、止めさせた。
「寝ているだけなのに栄養は必要ありません」
「……馬鹿なことをするな、君らしくもない。とにかく休め。明日、また来る。ところで先ほどの話だが……私としては反対する理由はない。本当にいいんだな」
武井は岩本の声が聞こえていないかのように、ぼんやりと天井を眺めていた。
「……これじゃ、栄養過多です。僕を太らせてもフォアグラは取れやしないってのに」
「……そうだ、君は人間だよ。断じてガチョウやアヒルじゃないんだ」
岩本は寂しげな口調で言うと、室内の電気を消して病室を出て行った。
「二、三日食べなくたって死ぬわけじゃないのに……栄養がもったいないな」
武井はそう呟くとあくびをし、目を閉じた。鎮痛薬を投与されていても、傷は痛む。
どくん、どくんと心臓が動くのに合わせて、ずきん、ずきんと傷が痛んだ。