「ようこそ、テレビの裏側へ」(2)
時刻は午後一〇時を回っていた。
明治通りを池袋方面に進む、シルバーの一九八五年型BMWがあった。
キャビンの上の自転車用キャリアには傷だらけのマウンテンバイクが固定されていた。
「君は、あんまり怖がってないみたいだな」
口ひげを生やした運転席の男がハンドルを握ったまま、助手席の正通に声をかけた。
「えっ……? そう、ですか……?」
十分に怖い思いをし、今も不安でいっぱいだというのに、隣でハンドルを握る男にはそう見えないらしい。
「ああ。あれだけのことに出食わしたわりには、落ち着いてるよ。この前、たまたま居合わせた大学生の兄ちゃんなんかひどかったぜ。泣きわめくばかりでなかなか車に乗ってくれないんだ。仕方がないんで、気絶させて無理やり車に押し込んだよ。はははっ」
「は……はは……」
――その話、ちっとも笑えないんだけど……
運転席に座る男の名は長坂秀雄。
陽子と同じくスヴォーロフ・プロに所属する俳優であり、処刑人でもある。
古流剣術を修め、殺陣を得意とすることからテレビの時代劇を中心に出演する傍ら、マネージャー業務も担当していた。
正通はこの男を当初、近寄りがたく感じたが、口を開けば意外にも気さくなので驚いた。
武井と陽子も含め、漫画や映画に登場する無口で冷酷な殺し屋のイメージとは大いに違っていた。
「長坂君。それ以上は……」
後部座席にもたれていた武井が長坂に釘を刺した。
「すみません、武井さん。……ん? どうした、江原君? クーラー強すぎたか?」
「い……いいえ。大丈夫です」
居心地悪そうに肩をすくめている正通に気を遣っての言葉だったが、なぜ肩をすくめていたのかまでは考えが及ばないようだ。
「長坂さん。そんなことより……」
後部座席で武井の横に座っている陽子が徐に口を開いた。
「大丈夫、もうすぐ着くから。陽子ちゃんと江原君には社長への説明をお願いするよ」
「はい、長坂さん」
長坂は努めて明るく振る舞い、陽子の不安を和らげようとしていた。陽子はそんな長坂の心遣いを察し、ミラー越しに笑顔を見せた。
「社長……ですか?」
正通が小さな声で問いかけた。
「ああ、そうそう。我らがスヴォーロフ・プロの社長だよ。心配すんなよぉ、怖い人じゃないからさ。それより、親御さんに連絡しなくていいのか?」
「はい、父も母も夜勤ですから」
そう言いながら、正通は長坂の横顔を不安げに見つめていた。
その様子を斜め後ろから武井が見ていた。彼は傷の痛みなどまったく感じていないかのように、いたって冷静だった。
新宿区・早稲田。有名大学の校舎からもほど近い、学生の街。
高田馬場駅前から続く早稲田通り周辺は有名ラーメン店や食堂に喫茶店、インド大使官邸が近い為かインド料理店やカレーショップなども軒を連ねる、ちょっとしたグルメスポットでもある。
正通は窓の外にあるインド料理店の派手な看板を見て、自分が夕食を摂っていないことを思い出した。
いつもと変わらぬ食欲があった。目の前で死体を見たというのに――。
「どした? ああ……腹減ったのかい、江原君?」
「え……ああ、大丈夫です」
隣の長坂からの問いかけに、正通は慌てて首を横に振った。
「うーん。『大丈夫』ってのは、『腹は減ったけど大丈夫』っていう意味かい? それとも『腹は減ってないから大丈夫』っていう意味かい?」
「えーと……その……」
そのやり取りを見ていた陽子がふん、と鼻を鳴らした。
「はっきりしないわねー、君。お腹が空いたならそう言えばいいじゃない」
「はい……すみません」
きつい物言いに、正通は思わず肩をすくめる。
そんな様子をミラー越しに見て、陽子はため息をついた。
「武井さんを病院に届けたら、何か軽く腹に入れていくか。俺も晩飯がまだだったよ」
「私、カレーがいいでーす」
陽子が後ろで右手を上げながらいたずらっぽく言った。
ああいう仕事の後でも……いや、仕事の後だからか――腹は減るらしい。
「はいはい、カレーね」
長坂が左手を上げながら返事をした。
「ごめんね、武井さん。私達ばっかり」
「ははは、僕はいいから皆で食べに行っておいでよ」
武井は優しく微笑む。この笑顔を見ている分には、とても怪我人だとは思えない。
「すいませんね、武井さん。江原君、後で食いに行こう。カレーでいいだろ?」
「へっ?」
正通は裏返った声を発し、目を丸くして長坂の横顔を見た。
「何か、おかしなこと言ったか?」
「あ、いえ……ありがとうございます」
殺し屋と一緒に食事を……と考えると心境は複雑だったが、断りにくい雰囲気だったので従うことにした。
正通はミラー越しに陽子の表情を窺おうとしたが、ちょうどミラーの死角に入り、その表情は分からなかった。
正通は陽子のようなきつい性格の女性が苦手だった。
というよりも、そういった女性を異性として見ることができなかった。いくら見た目がよくても、男のような性格の女性や冷たい印象を与える女性とは付き合いたいとは思わなかった。
――見た目が、よくても……か。
正通の脳裏に、華麗に空を舞う陽子の姿が蘇った。
美しい……一人の女性を見て、これほど強く感じたのは生まれて初めてかも知れない。
弓のようにしなる肩から腰にかけてのライン。見えない階段を駆け上がるように跳躍する、すらりとした脚。
太腿から足首まで無駄な肉のない脚は、絵に描いたような美しさだった。
「……ぐ、ごほん」
先ほど見た光景――ファスナーの隙間から垣間見えた、白く滑らかな太腿を思い出し、正通は咳払いをした。
「そこ。何、赤くなってんの? この腐れ変態野郎」
「うぐっ……」
陽子の罵声が胸に突き刺さる。見かねた武井が陽子を叱った。
「陽子。そんな口の利き方はやめるように言ったじゃないか。彼に謝りなさい」
「はーい。ごめんね、変態くん……ふん」
正通は力なく笑っただけだった。
「……着いたよ」
小さな映画館の横を入った路地の奥にある、【佐藤内科・外科医院】と書かれた看板を掲げた小さな病院の前で車は止まった。
「江原君、降りてくれ。陽子ちゃんは武井さんを頼むよ」
正通と陽子は返事をすると、急いで車を降りた。
長坂は車を降りると一人で病院の中へ入っていった。
陽子は反対側に回ってドアを開け、武井に肩を貸す。
「そこに立ってる変態くん。手を貸す必要はないよ。邪魔だからどいて」
正通が自分の後ろに立ち、手を貸そうとしているのが分かると辛辣な言葉を吐いた。
「こら、陽子。いい加減にしなさい。ごめんね、江原君」
「ちょっと、何で武井さんが謝るの! はいはい。私が謝ればいいんでしょう! ごめんごめん、斬捨て御免」
謝っている意味が全くない……というより、謝ってすらいない。正通はただ苦笑した。
「銃弾、カラダの中にないねー。血液出てる、少しだけ。今オペする、傷ふさがる。だからダイジョブ、ダイジョブ」
クマルと名乗る外科医は手術室のドアの前で簡単な説明をすると、軽い足取りで手術室へと入って行った。
病院の玄関に入ってすぐの待合室では、長坂を中心に、三人が並んで長椅子に座っていた。
「ここ、『佐藤内科・外科医院』なのに先生は日本人じゃなくてインド人なんですか?」
紙パックのカフェオレをストローで一口飲んでから、正通が長坂に尋ねた。
「いや、あの人はバングラデシュ人。元は『国境なき医師団』のメンバーで、アフリカや中東で医療活動してたんだってさ。この病院、昼は日本人の医師がいる普通の病院なんだけどね。夜になると俺達みたいな連中が担ぎ込まれて来るんだよ」
長坂は紙パックの緑茶にストローを差し、質問に答えた。
「夜になると……?」
「ああ、物騒な仕事をしてる奴の需要があるんだよ。銃創に刀傷……この手の怪我は普通の病院で見せるにゃ厄介だからな」
そう言うと長坂は緑茶を一口飲み、ため息をついた。
平静を装っていたものの、彼も武井が負傷したことに少なからずショックを受けていた。
「ちょっと、変態くん。あんまり詮索すると……消されるよ」
長坂の隣に座っていた陽子が、ぞっとするような口調で言った。
「え……消されるって……!」
正通が本気で怯える様子を見て、陽子はふふっ、と意地の悪い笑みを浮かべる。
「陽子ちゃん。タチの悪い冗談はよせよ。俺達が言うと、洒落にならないだろう」
「はーい。了解です……ふん」
陽子はそう言ってペットボトルに入った飲み残しのミルクティーを一気に飲み干した。長坂はそんな陽子の横顔を見ると、再びため息をついた。
「ねえ、変態くん。君、制服着てるけど高校何年?」
「二年生ですけど……」
正通がおずおずと答えると、陽子は呆れたように首をかしげた。
「私も二年生。同い年なのに何で、ですます口調でしゃべるの? そんなに私が怖い?」
「いや……そういうわけじゃ」
――そりゃ怖いよ! 怖いに決まってるじゃないか!
「ふーん。そう、怖いんだ。弱いねー、変態くんは……ふふっ」
横から正通の顔を見ていた陽子が鼻で笑った。これには正通も頭に来る。
「……じゃあ、丁寧語でしゃべるのはやめるよ。だから神岡さんも……『変態くん』って呼ぶのやめてくれない?」
正通の強い語調に陽子が即、反応する。
「はぁ? 『だから』って、何? それで譲歩したつもりなの? 自分の立場と言葉の意味を考えてからモノを言いなさいよ、変態くん」
「だから、その呼び名はやめてくれって言ってるじゃないか!」
「やめてもいいけど、その代わりにさっき宣告したワンパンチ喰らわせてあげる。どっちがいいか選ぶといいわ。変態くん」
「どっちも御免だよ! だいたい、たまたま見えただけなのに、そうやって……!」
陽子の攻撃的な声と鋭い目にも怯むことなく正通が反論する。
二人の間に挟まれた長坂が、額に手をやってため息をついた。
「たまたまって……痴漢の言い訳じゃない! 君、やっぱり変態よ。この痴漢予備軍! 高校を卒業したら『王立痴漢学校』に進学するといいわ。君ならきっと首席で卒業できる。その後は痴漢界のエリートとして新聞・テレビを賑わすのがお似合いよ!」
「あるか、そんなもん!くっ……」
正通は怒りながらも心の中で陽子の悪口のセンスに舌を巻いていた。
リアルファイトでは無論のこと、おそらく口喧嘩でも勝てはしないだろう。悔しそうに唇を噛む正通を、陽子が勝ち誇った表情で見下ろしていた。
「おい! 陽子ちゃん、自分に勝てない相手を挑発するなんて卑怯だよ。武井さんが心配なのは分かるけど、江原君に八つ当たりしちゃだめだろう」
「……はい、長坂さん」
陽子は少し反省した様子でそう言うと、うつむいてしまった。
――八つ当たりだったのか。よく分からない子だな……。
正通はまるで自分が悪いことをしたような気分になり、黙り込んでしまった。
それからしばらくの間は、誰も口を開こうとはしなかった。
手術が始まってから十分後、玄関の自動ドアから中肉中背、中年の男が入って来た。
外見年齢は五十代前半といったところの、長袖のワイシャツにグレーのスラックスを着用し黒い髪を七・三に分けた、品のいい男だった。
「社長、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
陽子と長坂が立って挨拶するのを見て、正通も席を立って頭を下げた。
「ああ、いいよ。座って、座って。二人ともお疲れ様」
社長と呼ばれた男が穏やかな口調で言い、長坂達を座らせる。そしてポケットの名刺入れから名刺を一枚取り出し、正通に差し出した。
長坂が言っていた通り、殺し屋達のボスにしては物腰柔らかで優しそうだ。
拍子抜けした正通は「あ、どうも」と言いながら名刺を受け取った。
【株式会社 スヴォーロフ・プロダクション 代表取締役社長 岩本真一】
武井のものと同様、文字とロゴマークが書いてあるだけのシンプルな白い名刺。
「はじめまして。スヴォーロフ・プロ代表の岩本真一です」
「あ、はい。はじめまして。僕は江原正通と申します。今日は、その……」
正通は途中で言葉を濁した。
「大丈夫、後のことは心配いらないよ。病院には私が残って説明を聞くから、君達はもう帰りなさい。江原君、申し訳ないが自転車は明日にならないと修理できないそうだ。今晩は長坂君に送ってもらいなさい」
「大丈夫です。まだ電車もありますから……」
社長は正通の言葉にうん、と頷いてから向かいの長椅子に腰を下ろした。
「我々と一緒にいるのが不安なのかも知れないが、我々には目撃者を守る義務があるんだよ。少なくとも今晩は君が無事に帰るのを確認しなければいけないんだ。その後しばらくは警察が君の家や学校の周りで警戒にあたってくれる。だから心配はいらないよ」
「警察……ですか?」
正通は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして社長を見つめた。
思わず長坂が苦笑する。
「我々は警察とつながりがあるんだよ。あまり詳しくは言えないが、少なくとも我々は世間一般で言う殺し屋とは違う。言うなれば、凶悪犯専門の処刑人といったところか」
「処刑人……ですか」
正通は気の抜けた返事をした。まるで映画のような話は現実味に欠ける。
「ところで、君は武井君の言うことを聞いて通報しなかったようだね」
「……どうして、それを?」
正通が身体をこわばらせると、岩本は頬を緩めた。しかし、目が笑っていない。
「……言っただろう、警察とはつながりがあると。君は変だと思わなかったかね? あんな所で銃撃戦が行われているのに警察が来ないということを。付け加えておくと、今夜はあの付近で五件の一一〇番通報があった。無論、銃声を聞きつけた住民の通報だよ」
「えっ……」
岩本の鋭い目が正通を見据える。
「我々の活動は警察に黙認されているんだよ。今夜、君が見たものはテレビに映らない世界……『テレビの裏側』というわけさ」
正通が沈黙したのを見て、陽子がそっと右手を上げる。
「社長。付き添いだったら私がやります。食事したら戻って来るつもりでしたから」
「……いや、その必要はないよ、神岡君。もう高校生は家に帰る時間だ。食事を済ませたらそのまま帰りなさい。武井君のことだったら心配はいらない。今後のことは私が彼と相談して連絡するからね」
陽子は不満そうな表情を浮かべていたが、やがて無言で頷いた。
「では長坂君、よろしく頼むよ」
岩本の笑顔には、社長というよりも指揮官に相応しい風格があった。そしてその口調には、相手を納得させるに足る不思議な力が備わっているように正通は感じた。
「はい、それはわかりました。ですが……」
「僕も説明をするようにと言われたんですが……」
長坂の返事の後で正通が控えめに手を上げると、岩本は「うん」と頷き、正通が上げた手をそっと下ろした。
一瞬びくっとした正通だったが、岩本の手の温かさに不思議な安らぎを覚えた。
「説明は武井君から聞く。神岡君からは明日、事務所で詳しく聞こう。それと……江原君。君には一つだけ……他言無用、ということだ」
「それだけ……ですか?」
「そう。君は巻き込まれただけなんだからね。怪我もなくて本当によかったよ」
岩本の言葉に、正通は拳を握り締めて俯く。
岩本が訝しげに眉をひそめると、正通は戸惑いながらもこれまで言い出せなかったことを口にした。
「武井さんが怪我をしたのは僕をかばったからじゃないんですか? 僕のせいで武井さんが撃たれたんじゃないんですか?」
「ああ、そのことは……」
岩本の言葉を遮り、陽子が突然立ちあがった。
「バッカじゃないの! 『僕のせいで』って何? 部外者のくせに何、言ってんの? 君一人があの場にいたところで、武井さんにはそんなの関係ないよ。武井さんは私なんかと違って数え切れないほどの修羅場をくぐって来た凄い人なんだよ? 撃たれたのだって十回どころじゃすまないんだから。今回も大した怪我じゃないよ!」
「……ごめん……」
正通が素直に謝ると、陽子はきまりが悪そうにため息をつき、更に言葉を付け加えた。
「それにさ。武井さんが『大丈夫』って言ってたのに……君は信じられないの? そりゃ、君はまだ会ったばかりだけど。でも……君は武井さんの言うことが信じられないの?」
数秒前の激しい口調とはうって変わって、まるで哀願するような口調だった。
「じゃあ、そろそろ行こうか。みんな腹が減っただろう?」
重苦しい沈黙を破ったのは長坂だった。陽子が困ったような笑顔を見せると、岩本は大きく頷いてから微笑んだ。
「それじゃ、また明日。江原君、君の自転車は明日中には君の家に届くからね」
「あの、修理代は……」
正通の申し出を、岩本が右手を上げて制した。
「心配はいらないよ。払うのは我々じゃないんだ。壊した方に責任があるんだから、壊した方が払うのが当たり前だろう?」
「え、壊した方って……」
もう死んでるんじゃないんですか、と言おうとしたところで、岩本が言葉を続けた。
「本人がいなくなっても、財産は残るからね。だから心配はいらないよ」
岩本の口調は穏やかだったが、言っていることは恐ろしかった。