「Dromeas(ドロメアス)―走者―」(2)
「お疲れ様でした!」
少年は逃げるように、アルバイト先のハンバーガーショップを出て行った。
ビル内の廊下を走りながら腕時計で時刻を見る。
「まだ、間に合う……!」
誰に言うともなく、口走った。
清掃員の中年女性が労いの声をかけたが、彼の耳には届かなかった。
ビルの地下から地上に出る階段を駆け上がり、外へと飛び出す。金曜の夜だからだろう、いつもより人が多い。
だが、人が多い理由はおそらくそれだけではない。
アルバイト先の近くに止めたマウンテンバイクに跨り、ビルの裏手から靖国通りへと向かう。
靖国通りの周辺は人でごった返している。
仕方なく自転車を降りて、押して歩くことにした。
横断歩道の前で信号が変わるのを待っていると、スラックスのポケットに入れた携帯電話が振動して着信を伝えた。
今では数を減らしつつある折り畳み式の携帯電話を取り出し画面を開くと、「新着メール 1件」と表示された。
帰宅が遅くなることを伝える母からのメールに対して簡単な返信メールを送ると、メール機能を終了し待ち受け画面を開いた。
画面に映し出されたのは、ステージに立つ美しい少女の姿だった。
疾風なつき――。
少年にとっての憧れであり、偶像だった。
少年の名は江原正通。
彼はペンタメローネのファンであり、特にリーダー・疾風なつきの熱心なファンだった。
「僕が尊敬する人物は、疾風なつきさんです!」
先日の進路相談における、担任教師の「尊敬する人物は誰か」という質問に対する回答である。
担任教師は大いに困惑していたが、正通は自身の回答に胸を張った。
ペンタメローネは確かにカリスマ的な人気を誇るアイドルユニットであり、親しみやすさと可愛らしさを前面に出して支持を得ている多くのアイドルユニットとは一線を画す存在だった。
メンバーはいずれも類稀なる音楽的才能と美貌を持ち、その登場は日本の音楽シーンに衝撃を与えたのだった。
真崎香苗。
天才ベーシストにして男装の麗人。
様々な楽器と音楽の知識に精通し、作曲と編曲をも手がける、ペンタメローネのサブリーダー的存在。
ブランカ。
リードギターとして複雑な旋律を変幻自在に弾きこなし、サイドヴォーカルも担当する、金髪碧眼の美少女。
母国語であるセルビア語とクロアチア語の他、日英独仏伊五ヶ国語を使いこなす語学力をも持ち合わせている。
アズリ。
キーボードと共に複数のシンセサイザーをも巧みに操る、電子楽器のスペシャリスト。
褐色の肌にオッドアイというエキゾチックな美貌の持ち主であり、その明るい性格からグループのムードメーカーでもある。
ベアトリス。
大人びた雰囲気と豊満なプロポーションで、男女から幅広い人気を持つドラマー。
そのスピード感溢れる力強い演奏とライブパフォーマンスはファンから『神業』と称されている。
そして――疾風なつき。
『五〇年に一度の逸材』と評されるほどの歌唱力と美しい歌声、作詞・作曲をも自らで手がける才能をも併せ持つ、ペンタメローネのリーダー。
人形のように繊細な顔立ちをした絶世の美少女であり、その美しい黒髪・清楚な雰囲気も相まって、今や音楽ファン以外からも絶大な人気を博していた。
ブランカ・アズリ・ベアトリスの三人は、名前が示す通り外国出身である。
メジャーデビュー当時は多国籍メンバーによるアイドルユニットという珍しさと、その優れた容姿に話題が集中した。
しかし、彼女らが国内外の実力派ミュージシャンと対等の立場で扱われるようになるまで時間はかからなかった。
『ミュージシャン』や『アーティスト』ではなく『アイドル』を自称する彼女達だが、その卓越した演奏技術と歌唱力、曲作りのセンスを疑う者は殆どいない。
ペンタメローネはスキャンダルとも無縁のアイドルユニットだった。人気が出始めたアイドルにありがちな、ファンを幻滅させるようなニュースが報じられることは全くない。
正通はアイドルとして厳しく自らを律し、ファンの期待を決して裏切らないペンタメローネのメンバー全員を心から尊敬していた。
正通は自転車を引きながら、ペンタメローネが今夜の記念ライブを行ったライブハウスへと向かっていた。
彼も多くのファンと同様、ライブの抽選に洩れた一人だった。
今更会場へ出向いたところで何ができるわけでもない。
ただ、ペンタメローネが、疾風なつきがいた場所に近づきたかった。
同じ空間を共有する気分を味わいたかった。
人ごみの中を注意深く進んでいるうちに、どこからか歓声が聞こえてきた。
声の上がった方へ目をやると、一台の高級車が進み出て来るのが見える。
遮光ガラスを装着した黒のレクサス――。取り巻く人々がスマートフォンのカメラを向け、一斉にシャッターを切っている。
控えめにクラクションを鳴らしながら徐行するレクサスをやり過ごすと、周囲からは落胆した声が上がった。
正通は周囲を一望し、ハッとした。
「あの、すみません! 今の車、誰が乗ってたんですか?」
近くでスマートフォンのカメラを構えていたスーツ姿の青年に慌てて声をかける。
「いや……分かんないけど、疾風なつきが乗ってるって聞こえたから……」
「…………!」
正通は大通りへと出て行ったレクサスに再び目を向けると、青年に礼を言って再び自転車に跨った。
――行くぞ、ドロメアス!
心の中で愛車の名を呼び、ペダルを漕ぐ。
ドロメアス――ギリシア語で『走者』を意味する言葉。それは正通が一番好きな曲のタイトルでもあった。
――『Dromeas』――作詞・作曲 疾風なつき 編曲 真崎香苗――。
ペンタメローネ四枚目のマキシシングル『泥だらけの靴』。そのカップリング曲として収録されていたのがこの『ドロメアス』である。
心の触れ合いや感情の機微を細やかに歌い上げたものが多いペンタメローネの曲の中にあって、この曲は異彩を放っていた。
『ドロメアス』は一つの物語として構成されている。それは、ある美しい鳥の変貌と暴走を描いた物語だった。
その不気味な歌詞とその中で描かれる救いようのない結末、独特のメロディと各楽器を駆使した奇想天外な表現手法はファンの間で物議を醸した。
『ドロメアス』は人気という点で他の曲に大きく劣り、現在のところアルバム未収録曲となっている。
しかし正通にとっては、この曲の歌詞や緩急に富んだメロディライン、効果的なサイドヴォーカル、そして鳥の鳴き声や足音をギターとドラムで再現するという表現手法がたまらなく格好良かった。
特に悲壮感に溢れる歌詞はなつきの潤いのある歌声と不思議な調和を見せ、正通はそこに他の曲とは違う魅力を感じていた。
この曲の良さが分からない者は真のファンではない、とまで考えていた。
正通の愛車――ドロメアスは時速二十キロを超えるスピードでレクサスを追っていた。
道路は多くの車で混雑している。目標との差は縮まりつつあった。
脳内で『ドロメアス』の前奏が再生される。
視線の先に憧れの人がいるかもしれない――。気持ちは昂るばかりだった。
車を追いかけたところで、疾風なつきに会えるわけではない。しかも、彼女が乗っているという確証はない。
しかし、それは大した問題ではなかった。
現在走っている道路は正通にとっていつもの帰り道にすぎない。彼は自宅のある練馬区から高校とアルバイト先のある新宿までほぼ毎日、片道十キロ余りの距離を自転車で通っていた。
必死にペダルを漕ぐうちに、目標との差は目に見えて縮まってゆく。
ギアを入れ替えて更に加速を試みると、レクサスが右折して側道へ入って行くのが見えた。
それを追って側道に入ると、その先にビルの建設現場があった。
およそ百メートル四方に渡って鉄製の外壁に囲まれた、高層ビルの建設現場。
レクサスはゲートの前で停車していたが、やがてゲートの中へと入っていった。ややあって、ゲートが再び閉じられるのが見えた。
正通は落胆した。
疾風なつきが建設現場に用があるとは思えない。ゲートを開けて入ったところからすると現場の関係者だろう。
正通は自転車を押してゲートの前まで来ると、ぼんやりと上を見上げた。
外壁に囲まれた建設途中のビルの骨組みとクレーン。その遥か上には半月を浮かべた夜空がある。
何気なく視線を下に落とすと、ゲートの鍵が開いていた。
そばの電柱に自転車を立てかけて鍵をかけゲートの隙間から中の様子を窺う。暗いこともあり、あのレクサスがどこへ行ったのかも分からない。
建造物侵入罪……正通の脳裏をよぎる、罪名。
関係者でもないのに中に入れば警察沙汰になってしまう。しかし、沸き起こった好奇心が正通の背中を後押しした。
なるべく音を立てないように、少しだけゲートの隙間を広げて敷地内に入り込んだ。中は真っ暗だった。
頼りない月明かりだけを頼りに、忍び足で暗闇の中を進むとようやく目が慣れてきた。ネットのかけられたビルの骨組みが暗闇にうっすらと浮かび上がって見える。黒のレクサスがビルと外壁の間に止まっているのも見えた。
近くに人がいる様子がないことが分かると、正通の好奇心は急速に萎えていった。
――何やってんだろ、僕は?
空しく自分に問いかけると、正通は踵を返してゲートへ向かった。
「ちょっと、君! 駄目だよ、こんなところに入って来ちゃあ」
突然、背後から男の声が聞こえた。
「はッ、はいィィ!」
上ずった声で返事をし、後ろを振り返る。暗闇の中に男が立っていた。
はっきりではないが、顔が見えた。
年齢は二十代後半だろうか。目が大きく鼻筋の通った、背が高くスーツの似合う美男子だった。
「ここは関係者以外立ち入り禁止だよ。夜も遅いし、早く帰りなさい」
男はこちらが拍子抜けするほど優しげな表情を浮かべていた。
「え……あ、ごめんなさい……あ、あの……」
正通がようやく言葉を発すると、男はにっこりと微笑んだ。
「ははっ、大丈夫。通報なんてしないよ。出て行ってくれさえすればいいんだから、ね。じゃあ、気をつけて帰るんだよ」
こちらの緊張を一気に解きほぐすような男の笑顔。
「はい! ありがとうございます、それでは失礼します」
「うん。暗いから気をつけて」
正通は男に頭を下げると、再びゲートへ向かった。
「動かないで!」
突然、少女の声が聞こえた。正通は思わずその場で立ち止まった。
「あぁ、彼はいいんだ! そのまま帰してあげて!」
男が声を発した相手を制止する。声の主が気になって振り返ろうとすると――。
「振り返らないで! そこで止まって!」
男の声とは対照的な、攻撃的なその声に思わず身体がすくむ。
「ちょっと、そんな言い方しちゃいけないよ。ごめんね。彼女のことは気にしないで」
あくまで男の口調は穏やかだった。
「えっ、だって……!」
「いいんだよ。ごめんね、君。それじゃ、気をつけてね」
少女の攻撃的な声がようやく止んだ。
「はい、それじゃ……」
正通はそう言いながら、気付かれないようにそっと後ろを見た。
「あ……?」
それは、見覚えのある顔だった。
さらさらした髪をカチューシャで飾り、細身の身体にブレザーとレース付きのブラウス、プリーツスカートを身に着けた、見るからに気の強そうな少女。
「ちょっと、振り返らないでって言ったでしょ! 早く出て行きなさいよ!」
このどこか攻撃的な声にも、聞き覚えがあった。
「もうやめないか。彼も困ってるじゃないか」
男の口調には静かな怒気が感じられた。
「うっ……はい……」
少女は口をつぐみ、そっぽを向く。その表情で思い出した。彼女の名を。
「えっと、神岡……陽子……?」
正通は確かめるように呟いた。
「え……君、なんで私の名前を知ってるの?」
「なんでって……前にテレビで見たから……です」
そう。以前観た深夜番組に出演していた売り出し中のアイドル――神岡陽子。
たまたま観ていたその回では現役女子高生アイドルを特集していた。愛想を振りまくアイドル達の中で一人だけ迷惑そうな顔をしていた彼女。
司会者に質問されても無愛想な受け答えしかせず、いつの間にか彼女だけがスタジオから姿を消していた……
可愛らしい顔に似つかわしくないアイドルらしからぬ言動と、時折カメラに向ける鋭い眼差し。
神岡陽子というアイドルは、正通の心に不思議と強い印象を残していた。
「うわ、最悪。なんで覚えてんのよ……」
間違いない……テレビで見たのとまったく同じ表情だ。
「あの……こんな所で何してるんですか?」
正通の質問に陽子はむっとした。
「何してるって……君には関係ないわ。いいから早く帰って」
あまりにぞんざいな口の利き方に正通は絶句した。
「撮影のリハーサルだよ」
再び男が口を開いた。
「ちょっと、武井さん!」
「僕は武井駿介。彼女のマネージャーなんだ」
陽子の声を気にせず、武井は穏やかな口調で自己紹介した。
「あ、どうも。僕は江原正通です」
あわてて頭を下げる正通に、武井が何かを差し出す。
「これ、暗くて見えないだろうけど」
そう言いながら武井が差し出したものは名刺だった。
「これからも陽子のことをよろしく。ほら、陽子も挨拶、挨拶」
陽子はしぶしぶ、正通に頭を下げた。
「神岡陽子です。これからもよろしく」
それは、愛想の欠片もない――それどころか、敵意をむき出しにした表情だった。
正通が顔を引きつらせていることに気がついた陽子は「ふん」と鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
「ふっ……もういいでしょ。私達、忙しいの。早く帰って」
陽子は横目で正通を睨みつけ、冷たい言葉を投げかけた。
もはや喰ってかかる気力すら無く、正通は陽子に背を向けた。
――こんなひどいアイドル、見たことがない――。
一気にげんなりとした気分になり、ふらふらとした足取りで二人から遠ざかる。
後ろからは武井の陽子を叱る声と自分への謝罪の言葉が聞こえるが、もうどうでもよかった。
正通は敷地の外へ出ると、振り返って建設中のビルを見上げた。一体、こんな時間に何の撮影があるのだろう。
正通はポケットにしまった武井の名刺を取り出し、街灯の明かりで照らした。
名刺は白い紙に文字と会社のロゴマークが印刷してあるだけのシンプルなものだった。
【株式会社 スヴォーロフ・プロダクション 営業担当 武井駿介】
「……すぼーろふ……何それ? 食べれるの?」
電柱に立てかけた自転車の鍵を外し、家路に就こうとした、その時。
こちらに向かって白いワンボックス車が二台向かって来るのが見えた。業務用として広く使われているハイエースだった。
「ロケ車……かな?」
正通がゲート前で止まったハイエースを何気なく見ていると、先頭車から二人の男が降りた。どちらも三十代と思われる、スーツを着た男だった。
一人は禿げ上がった痩せ形の男で、もう一人は筋肉質な短髪の男だった。
「…………?」
ゲートを開けるのかと思いきや、二人はこちらへと近づいてきた。
「こんばんは~。ちょっといいかなー?」
頭の禿げ上がった愛想の良い男が笑顔を浮かべながら、正通に声をかけた。
「はい……なんですか?」
正通が返事をすると、男が正通の肩を叩いた。
「ちょっと聞きたいんだけど、この中に車が入って行くのを見なかった?」
にこにこと笑いながら、男は優しい口調で尋ねた。
「はい。黒のレクサスが入って行きましたけど」
男の質問にどこか腑に落ちないものを感じながらも、正通は質問に答えた。
「ああ……そうか、なるほど」
にこやかだった男の顔が一変、鬼のような形相になった。
「……!」
男は正通の肩を抑えつけながら、腹に何かを突きつけてきた。それが何か、すぐに分かった。
――拳銃……!
今まで味わったことのない恐怖に、全身の血が凍りつくようだった――。