「Dromeas(ドロメアス)―走者―」(1)
その少女の全てが、輝いて見えた。
絹糸のような、長く艶やかな黒髪。
透き通るように白く、滑らかな肌。
可憐な衣装を纏った、そのしなやかな肢体。
テレビの画面越しに視線を交わした時のことを、僕は忘れない。
黄金色の澄んだ瞳に捉えられた瞬間、僕は彼女の虜になった。
美しい――。
彼女の歌声、彼女の姿。
その美しさを表現する言葉を、僕は他に知らなかった。
疾風なつき。
それが、彼女の名前だった――。
ライブハウスの場内を支配するアンコールの大合唱。
真っ暗だったステージに再びスポットライトが下りた瞬間、場内の熱狂は最高潮となった。
スポットライトの下、一人の少女が流れるような足さばきで喝采の嵐の中へ歩み出る。
白いストッキングに包まれた長い脚は、研ぎ澄まされた剣のような独特の美を感じさせた。
少女は場内を一望すると、そっと髪に手櫛を通した。
柔らかく繊細な指に光沢のある髪が掻き上げられ、その一本一本がライトに反射してきらきらと輝く。
そして――左手に構えたマイクに滑らかな唇をゆっくりと近づけると、静かに、深く息を吸い込んだ。
健康美と気品に溢れるその姿は、自ら光を放っているようだった。
やがて、少女が黄金色の瞳で客席を見渡しながら、ルージュに潤った唇を開く。
「今日、ここに来てくれた皆さん。本当に……本当に、ありがとうございます……!」
澄み切った潤いのある声で感謝を述べると、少女は深く息を吸い込み――。
「大好きな皆さんの為に……私達の全てをかけて、この歌を贈ります! “Flying Circus”!」
輝くような笑顔で、高らかに宣言した。
大歓声の中で前奏が始まる。
キーボードとリードギターの奏でる美しい旋律に力強いベースと軽快なドラムが立体感を与える。
それぞれの楽器を奏でるのは、肌や髪の色が異なる四人の美しい少女だった。
最高潮に達する興奮と熱狂の中、ヴォーカルの少女が口を開く。
それは、聴く者の胸に沁み渡るような歌声だった。
歌声と美しい調べは素晴らしい調和を見せ、文字通り場内を支配した。
少女の名は――疾風なつき。
自ら楽曲製作と演奏をも手掛けるアイドルユニット“Pentamerone”(ペンタメローネ)のリーダーである。
この日・六月二十四日。ユニット結成三周年の記念ライブが都内のライブハウスで行われていた。
ライブに参加できたのはCD購入者の中から抽選で選ばれた八百人のみ。
抽選に漏れたファンが大勢詰めかけたことにより、周辺では一時警察が出動する騒ぎにまでなっていた。
東京――新宿歌舞伎町。
時刻は午後八時四十分を過ぎていた。
眠らない街という別名の通り、歌舞伎町は昼間以上の賑わいを見せている。
「いつ来ても本当にうるさいね、この街は」
靖国通りの道路脇に停車する一九八五年型・シルバーのBMW。その後部座席に一人で座る少女が、さも不快そうに口を開いた。
艶のある真っ直ぐな黒髪を肩までのセミロングに切り揃えた、美しい少女だった。
真っ赤なブレザーと黒いスカートを身に着け、髪には琥珀色のカチューシャを挿している。
白い肌に大きな目が印象的な面立ちは可憐そのものだったが、その眼差しや表情には、それと相反する鋭さがあった。
「陽子は新宿が嫌いかい?」
運転席に乗った男はハンドルに手を置いたまま尋ねた。
「別に新宿全部が嫌いな訳じゃないけど……歌舞伎町が好きな女子高生の方が問題でしょ?」
呆れたように言うと、陽子と呼ばれた少女はペットボトルのミルクティーを一口飲んだ。
「なるほど。確かに、ああいうのは問題かも知れないけれどね」
視線の先には、笑いながら歩く六人の高校生の男女がいた。
陽子は遮光ガラス越しにその後ろ姿を見送り、小さくため息をついた。
「ねえ、武井さん。すぐそこでペンタメローネがライブやってるんだよね?」
ふと思い出したように、少女――陽子が話を振った。
「ああ、結成三周年の記念ライブか。そろそろ終わる時間だね……気になるのかい?」
「別に。気になるってほどじゃないけどぉ……」
陽子が言葉を濁すと、運転席の男――武井がハンドルに手を置いたまま、後ろを振り返って笑顔を見せた。
街を歩けば間違いなく人目を引くであろう、その端正な顔に一輪の花が咲いた。
「陽子も早く、あれくらいになれるといいね」
その笑顔は少年のように無垢だった。
「えっ……」
陽子は一瞬驚きの表情を浮かべた後で、顔を赤くしてそっぽを向いた。
「どうしたの。君だって同じアイドルなんだ。上を目指すのは当然のことじゃないか」
武井の口調にからかっている様子は微塵もない。
陽子は赤くなった顔をそらしながら、照れを隠すようにミルクティーをまた一口飲んだ。
「にしても、何であんな小さい所でライブやるのかなぁ? ドームとか武道館みたいな、もっと大きなホール借りればいいのにさっ」
陽子は、さも面白くなさそうに言った。
「メジャーデビューする前に何度も利用したライブハウスだから、と聞いたよ。それに、ファン一人一人の顔がちゃんと見える所で唄いたいってポリシーがあるそうだからね」
武井はスーツの内ポケットから手帳を取り出すと、ペンで何やら書き入れた。
「なるほど、ポリシーね。疾風なつき……かぁ。凄い人だよね。詞や曲も書いて、衣装まで自分でデザインしてるっていうし。この間ゲスト出演したドラマ、視聴率何パーセントだっけ?」
「最高瞬間視聴率三十一.三パーセント。あのドラマ、それまで人気なかったのにね。五十年に一度の逸材っていうのは伊達じゃないなぁ」
素直に感心したように言うと、武井は手帳を内ポケットへしまった。
「秋葉原のコスプレライブ、十日後だったよね。うまくいくかなぁ? 今度は巫女さんの服とか着るって言ってたよね」
「何、言ってるの。あそこの仕事は初めてじゃないだろう?」
どこか投げやりな陽子の問いかけに、武井はやんわりとした口調で答えた。
「だって……唄ってるそばでお客さんがよくわかんない動きして、無駄にテンションだけ高いし……ああいうの、私には理解できないんだけど……」
少女の名は神岡陽子。十六歳の現役女子高生アイドルである。
……と言えば聞こえはよいが、デビューして二年の彼女に回ってくる仕事は少なく、その芸能活動は商店街やショッピングセンターのイベントが精々だった。
売れないアイドル――。
これ以上、端的かつ的確に彼女を表す言葉はないだろう。
陽子の所属する『スヴォーロフ・プロダクション』はロシア帝国最強の名将と同じ名を冠しながら、その実態は名前負けもいいところの弱小芸能プロダクションだった。
陽子の他に六人いる所属タレントは主に俳優として活動しているが、回って来る仕事はエキストラと端役ばかり。
所属タレントはたったの七人、大きな仕事も入って来ない。
よくこれで潰れないものだと、スヴォーロフ・プロを知る人の多くが首を傾げる。
一向に成果を上げない陽子の芸能活動が、所属事務所の力に比例していることは疑いの余地がない。
しかし、芸能活動を成功させるにあたり、まずアイドル本人の努力と才能が不可欠であることは言うまでもない。
その点、陽子は歌やダンスに日夜努力を傾け、その才能をも示していた。
一方で、陽子は自身の努力と才能を打ち消すほどのマイナス要素を持ち合わせていたのだった。
「みんなに愛されるアイドルになる為にも、どんな仕事でも全力で取り組もうよ。ね、陽子」
陽子の芸能活動を最もよく知る人間――マネージャーの武井駿介が、再び後部座席を振り返って微笑んだ。
「わかってるよ、武井さん」
陽子は傍らのサイドバッグから取り出したスケジュール帳をめくり、ページの端に「逃げたら負け☆」と書き込んだ。
「あ……! 武井さん」
スケジュール帳を閉じた陽子が、何かに気づいて声を上げた。
陽子の呼びかけに武井は「どうした?」とも聞かずに横目で彼女の視線の先を追った。
先ほど見かけた高校生の男女に、二人の男が声をかけていた。
共に品の良いスーツを着た、壮年の男達。
頭の禿げ上がった痩せ形の男に、筋肉質な短髪の男。共に品の良いスーツを着て、顔には柔和な笑みを浮かべていた。
「行くよ、陽子。準備をしておいて」
武井の表情が一転、獲物を狙う猟師の表情に変わった。
キーを回してエンジンを始動させると、ギアをローに切り替え、ゆっくりと車を発進させた。
「分かった」
陽子は短く答えると、サイドバッグから革製のホルスターを取り出した。
ホルスターの中に入っていたのは、直線的なフォルムを持つ細身の自動拳銃だった。
TT‐33――通称『トカレフ』。一昔前に暴力団の抗争などに使用され、大いにその悪名を高めた拳銃。
陽子の手にしたそれはモデルガンやエアソフトガンではない。火薬の力で金属の弾丸を射出する、殺傷力を持った本物の軍用拳銃だ。
陽子はトカレフのグリップから弾倉を抜き取ると、スライドを少しだけ引いて薬室に弾丸が装填されていないことを確認し、続いてマガジンの装弾数を確認してから再度グリップに収めた。
標準装備のベークライト製グリップパネルではなく、木製のグリップパネルが装着されたトカレフは青みがかった鈍い輝きを放っていた。
陽子がトカレフをホルスターに収めるのをバックミラーで確認すると、武井は振り返ることなく後ろの彼女に声をかけた。
「マリュートカ。これより先、作戦終了まで外部との通信・連絡を禁ずる」
先程の優しげな口調とは似ても似つかない、無機質な口調だった。
「了解」
陽子はスマートフォンの電源を切ると、プリーツスカートに隠されたファスナーを開けてその隙間にホルスターを入れ、右の太腿に固定されたベルトに素早く装着した。
「それでは作戦を開始する。打ち合わせ通りに行くぞ」
「了解」
やがて二人を乗せたBMWは渋滞する車列の横を滑り抜け、ネオン街へと消えて行った。




