38話 Cobweb
「お願いします! やめてください! 本当にもうやめてください!」
商会ギルドのギルドマスターは次々とやってくる渡り人に、どんどんこの倉庫に集まって窮屈そうに身をよじる渡り人たちを見て顔を顔を真っ青に、そして憔悴しきった表情でヤコに懇願する。
みっともなく膝を、地面に崩れ落ちるように膝を折るその姿を笑うものはさすがにいない。
「これでは――これでは何人も人が死ぬことになります!」
「はて? 殺すなどとは人聞きが悪い。おぬしは儂らが安く持ってきた肉や塩、宝石や貴金属を各商会に高く売ることができる。誰が死ぬのかとんと見当がつかぬのぅ?」
ヤコはそんなことを言っているが、しかし、彼女は絶対に判っていることだろう。
この世界の住人にだって今まで生業としていた職がある。
たとえば狩人ギルドはオレたちが持ってきた塩漬け肉の材料である動物を狩り、動物をさばき、そしてそれを肉と皮にわけて商会や皮職人などに販売しているのだ。
もしその商品が、明日にでも売れなくなってしまうとしたらどうなるだろう?
日本にだって財政難を理由に自殺する人間がいるのだ。
想像するだに恐ろしい。
「第一、儂らはある目的のために金が、それも気が遠くなるほど膨大なる金が必要なのじゃ。なればこそ法を利用し、法を悪用してでも金を稼ごうとするのは当然ではなかろうか? そう――儂らを小バカにしたとある商人のようにのぅ?」
ヤコが、ついに話の核心に切り込んだ。
「その憂いさえなくなれば、儂らもかようなことをせずともすむのじゃがなぁ?」
「そ、それはまさか、その……彼女の、ことですか?」
ヤコが垂らしたクモの糸に、ギルドマスターが震える声で縋り付く。
この男がベッキーのことを知っているのは意外だったが……いや、よくよく考えれば彼は商会ギルドの長だ。そういった契約や噂を聞く機会があったのかもしれない。
「で、ですが彼女は彼女の意思で契約を」
「では金が要るの。ほれ皆の者! 手がとまって――」
「ま、待ってください!」
――なるほど、ヤコの本当の狙いは、こっちか。
ベッキーが脅迫の末にあの商人と奴隷契約を結んだのであれば、その商人よりも理不尽な力で以って交渉してやればいい。
法を守って多数を殺すか、法を破って多数を救うか。
彼女は今、その男にどちらをとるのか、二択を迫っている。
いや、二択と言えるほどのものでもないだろう。
その二択は選びようがない。
「しばらく……今しばらくお待ちください!」
「ふむ? しかし儂らは早く金がほしいのじゃがなぁ?」
「お願いします! その件は私どもにお任せください! 決して、決して悪いようにはいたしません!」
「この世に絶対はないことを知らぬのか? そしてそれでだまされ死んだものを知っておる。却下じゃ」
「ここで誓います! 契約書も書きます! ですから! お願いします! お願いします!」
ついに、彼は額を地面にこすりつけた。
「ふむ……」
ヤコは男を見下ろしながらやや考え、そしてラードーン卿にも忠告するかのように。
「よかろう。じゃが、もし儂らの信頼を裏切れば、その瞬間この世を地獄へ変える。ゆめゆめ、忘れるでないぞ?」
能面のような表情で吐き捨てた。
[jump a scene]
倉庫に置いた塩漬け肉を粛々と片づけ、次いでオレたちはルイスの鍵を使って海底遺跡へと飛んだ。
それはこの大量の塩漬け肉を照りつける強い太陽と吹き続ける潮風にさらして乾燥させるためだ。
現に目の前には肉を干すための物干しざおや金属製のフックにひっかけられた肉が干されている。
「――なぁ、ヤコ。ありゃ少しやりすぎじゃねぇか?」
だが、その作業が始まる前、やはり元警察官の常識がまだ残っているらしいイーヴァがヤコに対して苦言を呈する。
「ふむ? そうかえ?」
「当たり前だろ? 言うこと聞かなきゃ市場を崩壊させるとか、まるっきりやくざじゃねぇか」
「くふふ、これは異なことを言うの。そもそも儂ら冒険者はやくざな商売じゃ、やくざな手段に出るのはしょうがないであろう?」
「だからって……」
「それにの? もし正攻法で金を稼ぎ、ベッキーを取り返したとしたら――次は儂らじゃよ? ベッキーと同じ契約方法で似たような契約をさせられて、同じように搾り取られるぞい?」
「……」
「なればこそ、鬼の如き憤怒の形相で以って、儂らを抑え込まんとする魑魅魍魎をその手に持った大太刀で以って打ち払わんとするのは当然ではなかろうか? そう、過去に奴隷として召喚された渡り人のようにの?」
そしてヤコ曰く――過去に召喚されたその者たちは文字通り奴隷の身分でありながら、そうやってすべてを振り払い、地下世界へと逃げ出したそうなのだ。
いつかやって来る未来の自分たちのために、逃げる場所と安住の地を確保するために。
そのため、地下世界でまつられている神棚にはその礎となった――現在の地下世界の武人と職人の街の礎を築くため身を粉にした貴き人たちがまつられているそうだ。
文字通り、護国の鬼として。
「……とはいえ、一度崩壊した市場の立て直しなど本気で大変じゃからやりたくない、というのが本音じゃ。じゃから」
いいながらヤコはてくてくと物干しざおに近づき、しかし突然オレたちに振り返ってサムズアップ。
「主様たちがとってきた肉の大半は、最初からここに干しっぱなしじゃ!」
「……は?」
――そういえば、どうしてすでに肉の天日干しが行われているのだろう?
「というかの? 干し具合にもよるが干せば肉のかさは半分近くにまで減る。主様が加工してくれた塩漬け肉の総量は馬車三十台分――重量に換算しておおよそ七トンと五百キロ。乾燥が終わればその半分、さらにそのうち半分は地下世界に引き渡す契約をしておるためここにある肉も乾燥が終われば半分ほど地下世界へと運ばねばならぬ……さて、その程度の量でこの世界の市場を崩壊させられるかえ?」
「無理ではない、が……」
「儂の見解を言えば、そんなのはほぼ無理じゃ。だって普通より安く買いたたけるのじゃよ? ちゃんと加工しながら王都や周辺の村に売る量をうまく調整してやれば――まぁ、多少は廃棄せねばならぬだろうが、市場は崩壊せん」
だからこそ、儂は『見せ札』として干し肉よりも腐れやすい塩漬けしただけの肉をあそこに出させて見せた。
さらに、後ろから次々と冒険者を来させることによって焦燥感をあおり正常な思考を失わせる。
「そう、『腐れる、故に早く売らねば』という暗示をすり込むためにの!」
ヤコはにやにやと、本当に意地の悪い笑みを浮かべてそんなことを語る。
「第一の? 冒険者ギルドが保有する倉庫など海底遺跡と妖精界くらいにしか存在せん。他の世界はモンスターやら野生動物がいて保管がめんどくさいからの……ああ、地下世界は国がすべての土地を管理しているためにそもそも買えんかった」
「お、お前ってやつは! お前ってやつ――いやまて! っていうことは!」
イーヴァが何かに気づき、勢いよく振り返る。
オレもその視線につられるように振り返ると、そこには水着に着替えた渡り人たちがビーチパラソルを立てていたりとかバーベキューの準備をしていたりとかしていた。
――お前ら! それはどこに入れていた!?
普通に考えれば、彼らのアイテム欄は塩漬け肉で埋まっているはずなのに!
「くふふ! 敵を欺くにはなんとやら。本日休暇中であったギルド職員と、その友人やらお隣さんたちにルイスの鍵一揃いを報酬にエキストラ役を手伝ってもらったのじゃ。いやはや、今回はあまりにも多くルイスの鍵を放出してしまったわ。まぁこの程度ならば小動もせんがの!」
「ウソの上にハッタリかましてさらに脅しかけるとか! お前は詐欺師か!?」
「くふ、くふふ! これこれイーヴァよ、異なことを言うでない」
イーヴァのその言葉に、ヤコは心底おかしそうに笑い、そしてあらためてその言葉で締める。
「そもそも儂は言ったじゃろう? 冒険者はやくざな商売じゃ、と」
[jump a scene]
――さて、そうやって冒険者ギルドが商会ギルドとベッキーのことに関する契約を結んだその翌日。
「ここかっ!」
ものすごい形相のディタムス王が、修理したばっかりの玄関を蹴破り、うちにやってきた。
「えっと……粗茶だけど」
兵士二名とラードーン卿を連れ立ってやってきたディタムス王に対し、レオンはほかほかと湯気をたてる緑茶――いや、茶葉はハーブなので緑色のハーブティーか――を人数分そっと差し出した。
「感謝する」
玄関は王にあるまじき所業によって開け放たれ、その開け放たれた玄関先ではうちと同じような所業をされて、彼が連れ立っていた兵士に被害を訴える渡り人の姿。
また、二人目の兵士は大工のところまで走って行ったため、そこにいるのは平謝りを繰り返すそば付きの兵士と、今回の被害額を計算して頭を抱えるラードーン卿。
以前ディタムス王はフットワークが軽いとか思っていたが、それ以上にフリーダムすぎやしないか?
そんな非難の目を向けられるも、彼は素知らぬ顔でハーブティを一口。
「ほぅ? 緑の茶を飲むのは二度目だが、こちらは口の中に心地いい風が吹き抜ける」
「ハーブティーさ。僕はカフェインをとると眠れなくなっちゃうからね」
「オレとしては久しぶりにコーヒーが……と、それはさておき。ええっと、ディタムス王?」
「うむ」
「なんであなたがここにいる?」
「昨日、政務が終わろうとしたその時間、ラードーン卿より報があってな。――なんであの腹黒狐を止めてくれなんだ!? 国を崩すなどとほざきおって!」
先ほどまで落ち着いてきたディタムス王がふたたび、取り乱す。
「それはオレに言うことじゃねぇよ!」
というかヤコ、お前ディタムス王にまで腹黒狐とか思われてたのか。
――って、いやまて! まさかあの幼女狐、ディタムス王にまであることないこと吹き込んでいるのか!?
ヤコは後でいろいろ請求するとか言ってたが、貸し借りはこれでなしだ! 問い詰めてやる!
「貴様はあの腹黒狐の婚約者であろうが! なぜそのようなものが、その良識をもってああやつをとめん! 最近はようやく平穏となって胃痛も減って来たというのに!」
こうしている間にもしくしくと痛むのか、ディタムス王はその高級そうな服にしわが寄るのも気にせずみぞおちあたりをわしゃっとつかむ。
「ラードーン卿が顔を青くし、近衛兵の制止も振り切って執政室に飛び込んできたとき、その口からあの腹黒狐の脅迫を伝えられたとき……私はその瞬間、血を吐いて死ぬかと思ったわ! 本当になぜ止めん! 我が子はまだ十にも満たないのだぞ!?」
「あー、うん……僕、お茶を入れなおしてくるよ。胃にやさしい、ぬるめの、薄目に」
「……頼む」
レオンがそこから逃げ出すように立ち上がり、彼のカップをもってそそくさと外へ。
「ああ、そういえばディタムス王」
「……なんだ?」
「レオンは何気なくお茶を出したが……」
毒殺の危険性とか考えなかったのだろうか?
というか、十にも満たない息子のことを考えれば、暗殺とか謀殺の危険性がある人がどうしてこうもフットワーク軽く外へ出歩くのだろうか?
「構いはしない。私は王家が血とともに受け継いできた召喚魔法が一切使えぬからな。我が子が教育を終え王位を継ぐまで、その空位を埋めているだけにすぎん」
「――は?」
「コカトリスがやってくるまで王宮にいた渡り人の言葉を信じれば、突然変異、というやつらしい。生まれた時から我がこの身体に魔力は一滴もない。……幸いにして、我が子は父に似て膨大なる魔力をもっているため、さほど心配はしておらぬが」
そうか、召喚をしないのはヤコが差し止めているという他に、彼がそもそも召喚できない体質だったからなのか。
……先代王はたしか、結構なご老体であったはず。だというのにその老骨にむちを打ってオレたち二百人を一斉召喚したのはそういう理由があったからか。
そしてフットワークがこうも軽いのは、子供が成人して王位を継ぐまでの間にその地位を盤石にしたいから、だろうか?
ならばこそ、こうも渡り人に親しい態度にも納得がいく。
オレたちから見れば彼は雲上人。だというのにこうも粗雑な言葉を使っても不敬と訴えることをしないのは、単純にオレたちを取り込みたいがため。
「――いやいや! まてまてまて!」
そして、オレは、嫌な予感にぶち当たる。
「それを、知っている人は?」
「近衛兵と、直臣たる数名の貴族。そして――昨日教えたばかりのラードーン卿と、あなたと腹黒狐ら冒険者ギルドの上層部。あとは二か月ほど前に捕らえられ、先月首をはねた元モリア家の小倅くらいだな」
限られた人間しか知らないとか! いきなりひどい爆弾を投げ渡された!
思わず、オレは顔を手で覆う。
「我が子が私の王位を継ぐまであと七年――いや、最悪我が子が召喚魔法を完全に修めるまで、私はなんとしてもこの国の平穏を維持したいのだ。故に――今日はあの腹黒狐の婚約者たるあなたに、直談判しに参った! これ以上国を荒らされてたまるか! あなたにはあの腹黒狐の手綱をしっかりと握っていただきたい!」
「その心意気は賛同するものがある――が、一つ言わせてもらおう」
「おお! 賛同してくれるとは! これは見通しが明るい! ……で? なにかね?」
「そもそもオレがあいつの婚約者っていうその情報が間違いだよ!」
「なに!? あの腹黒狐、暇さえあればここぞとばかりに惚気てくるからからてっきり!」
……まぁ、確かに普通は自分の恋人でもない限り惚気話を他人に話したりはしないよな。
怒鳴る気力さえなくなり、オレは思わず天を仰いでしまった。
それからしばらくして、一体どのようなルートで話を聞きつけてきたのやら、オレたちの家にヤコが大工を連れ立ってやってきた。
そして、オレの話を聞いたヤコは開口一番。
「――あんの腹黒タヌキめ! 主様に訴えに来るとは卑怯すぎじゃ!」
ディタムス王はといえば、レオンが淹れたぬるめ、薄目のハーブティーを飲みほし、報告役となる兵士の一人を置いて早々に立ち去ってしまった。
彼は彼女と鉢合わせするのを避けたかったのだろう。
主に、胃痛という理由で。
さておき。
「それをお前が言うか? あっちはあっちで腹黒狐とか言っていたぞ?」
「う、ぐ……じゃ、じゃがなぁ? 儂とて皆を守るためにしかたなくやってる部分はあるんじゃよ?」
いやまぁ、それはわかっているからこそ、こうやって軽く皮肉を言うだけにとどめているのだが……それを言えば『ツンデレじゃ!』などと彼女を喜ばせるだけか。
「それで? ここに来た理由は?」
「ああ、うむ。今日の儂の仕事は午後からじゃったはずなのに朝っぱらからジュウゴヤに呼び出されてしまっての。その気晴らしに主様の顔を見に来たのがひとつ、そしてもうひとつは――」
そこで彼女はもったいぶるように言葉を止め、にんまりと深い笑みを浮かべる。
「ベッキーが、戻ってきたぞい?」
「本当か!?」
オレは思わず聞き返す。
「い、いったいどうやって!」
「うむ。あの商会ギルドのギルドマスターめ、その日のうちに彼奴の商会へと赴き、商会ギルドとの商会取引の完全停止とベッキーの開放の二択を迫ったそうじゃ。そして答えは言わずもがな、じゃ」
「それは、なんとまぁ……」
そのギルドマスターもずいぶんと思い切ったことをしたものである。
……いや、同じように権力を使って脅しをかけたオレたちが言えた義理ではないが。
「まぁ、さすがに脅しが過ぎた様での? 二度とこのようなことがないよう周知すると、ベッキーを連れてきたときに頭を下げてきおったわ。これで儂らも枕を高くして眠れるわ」
「そ、それでベッキーは?」
「ああ、ベッキーかえ? あまりにも早い時間にやってきた故、今は冒険者ギルドで朝食を食べている頃ではなかろうか?」
朝食を食べられるということは、健康にも問題はなし!
ヤコのその言葉に、オレは思わずガッツポーズをした。
[jump a scene]
「ベッキー!」
ランディが彼女の名前を叫びながら冒険者ギルドの応接室に突入。
だが、彼の肩越しに見えるベッキーは、応接室の中ではちみつをたっぷりとかけたホットケーキを食べていた。
むわっと、甘ったるいにおいが鼻をつく。
「あ、ランディ。それにみんなおはよう」
そして、三日ほど奴隷になっていたというのに、ベッキーのその表情には悲壮感のかけらもなかった。
思わず、気が抜ける。
「それよりみんな見て! ギルドが新しくこのお菓子を売り出すんだって! すっごく甘くてすっごくふわふわですっごくおいしいの! 私のお小遣いで買えるくらいの値段だといいなぁ……!」
「あ、うん、無事で何よりだわ……おっさん、姐さん後任せた」
気張っていたものすべてがこの光景で抜けきってしまったらしい。ランディはぐったりとした様相でオレたちに道を譲る。
「ところでおじさん、いったいどんな魔法を使ったの? 私、おばあちゃんになる覚悟までしてたのに」
「……ヤコから聞け、ヤコから」
もちろんランディと同じく気の抜けたオレもまた、説明がめんどくさくなってヤコに丸投げする。
「……さておき、おかえりベッキー。なにか変なことはされなかったか?」
「大丈夫! 私みたいな子供に欲情する変態はいなかったわ! 第一、そんなことしたらぶち殺してやるって指先を光らせながら脅してやったわ! <治癒のルーン>だから殺せるわけがないんだけどね? うふふ!」
「ははっ! たくましいな!」
「……いやイノ、笑いごとじゃねぇからな? つーかベッキー、そういう手合いは逆上するとなにするかわからねぇから脅すのはやめとけ」
それを言うと、オレたちも脅してベッキーを取り返したようなものなんだが……。
その言葉をぐっと飲み込む。
「はーい」
イーヴァの忠告に、ベッキーはちろりと舌を出して答える。
……まったく、悪いところばかりマネしやがって。
思わずベッキーがマネをしたと思われる彼女を見やる。
「え? なに? そういうのを教えたのは私じゃないわよ? さすがに教えるわけないじゃない」
が、当然のように当人は否定した。
……まぁ、当然か。
ベッキーが、そして甘いはちみつに魅入られた女性陣の強力な意思により、オレたちが冒険者ギルドでホットケーキを食べ終えたころ。ベッキーを迎えに来たのは明けの二時であったにもかかわらず時刻はすでに明けの四時となっていた。
まぁ、さすがにあの騒ぎのせいで朝食を食べ損ねたということ、そして焚火でホットケーキを人数分作るという作業は存外に大変だったらしい。
後ほどここのギルド職員になにかお詫びの品を届けなければ……いや、それはさておき。
オレたちが冒険者ギルドから出てくると同時、オレの方に向かっていきなりルーンが飛んできた。
「……<治癒のルーン>?」
ゲーム時代、辻回復というか、<治癒のルーン>や<賦活のルーン>をパーティに飛ばす練習として、街中で<治癒のルーン>をパーティメンバーに飛ばしているクレッセントがたまにいた。
今回はその誤射かな? なんて思いながら、オレは<治癒のルーン>が飛んできた方向へと視線を巡らせる――と、そこにいたのは酔っ払い。
「っ!」
しかも、ただの酔っ払いではない。
「くひっ!」
顔を真っ赤にし、目を充血させ、アイテム欄から取り出したクレッセントのレーションを一口で食べ、左手に持った酒瓶をぐびりとあおる。
「――なんでお前がっ!」
その男の――ベッキーを奴隷としていたあの商人の姿に、当の本人たるベッキーが叫ぶ。
「くひひっ!」
しかし、その男はよほど酒に酔っているらしく、ベッキーの叫びに答えを返さない。
「知ってる! 知ってるぞぅ! <チィユ、ノ、ルゥン>!」
その口調はあまりにもろれつが回っておらず、そして発音も怪しく、たどたどしい。
だが、それでも覚醒技は――システムはぎりぎり成功だと認識したらしく、やや遅れて右手の指先が光る。
「これで! これで! 死ぬ! 呪い死ね!」
――そういえば商会のギルドマスターは『以後このようなことがないよう周知する』と言っていた!
――そういえばベッキーは『殺すぞ!』と、男の前で<治癒のルーン>を励起したと言っていた!
――そういえばイーヴァは、監禁されていた倉庫で死に戻りしていた!
次々と重なる要素に、オレはそいつに何があったかを悟りはじめる。
――この男! 商売ができなくなるほどの事態に陥って自棄になっている!
それは自業自得とはいえ、しかし、まさかこのような形で報復してくるとは思わなかった!
「くひ、くひひ!」
ふらふらと、酒に酔った男は北門の方角へと歩いていき、そして知ってか知らずか<治癒のルーン>を多重強化。
――どうやら、ベッキーをからめとっていたクモの糸は、いまだにオレたちの身体にまとわりついていたらしい。
そして、どんどん光る指先に、次に想像できてしまう事件に、顔が蒼くなる。
「その男をっ――」
ぴかぴかと、きらきらと――びがびかと、ぎらぎらと。
どんどん強くなるクレッセントのライムイエローの光は、モンスターを引き寄せる。
千鳥足の男が向かっているのは、北門の方角。
もし城門を出てしまえば、モンスターが引き寄せられるのは時間の問題だ!
「――そのクレッセントを捕まえろぉっ!」
オレの怒声と同時、男は「くひひっ!」と壊れた笑い声をあげて。
まるでオレたちに嫌がらせをするかのように。
――フラフラながらも、<治癒のルーン>を唱えながら、城門へ向かって走り出した。




