16話 Ignorant of
「ねぇ、イノ君、本当に冗談、だよね……?」
レオンが震える声でオレの言葉を聞き返す。
「いや、昨日言ったとおりだ」
しかしオレは何度も同じことを聞くなという言葉を言外に込め、涙を浮かべんばかりのレオンに吐き捨てる。
「オレとイーヴァは今日から別行動をとる」
「そんな――!」
改めて、レオンが絶望する。
「どうして! どうしてなんだい! 僕たちは幾度となく同じ夜をすごした中じゃないか! だって言うのに……だって言うのに!」
「黙れ!」
「いいや! 黙らない! それよりも僕を納得させてくれよ! どうして今更になって僕と別れるだなんてことになったんだい!? ねぇ、答えてよイノ君!」
「ギルドから直々の指名なんだよ! 昨日からこれで四度目だ!」
あと誤解されるような言い回しをやめろ! さっきから周りの黄色い悲鳴が止まらないだろうが!
ああもう! あいつらまたチャットに拡散し始めてやがる!
「お前ら娯楽に飢えすぎだ!」
オレがそう吼えると、まるで蜘蛛の子を散らしたかのように彼女たちは散開。
最近素材集めにモンスターと積極的に戦うプレイヤーも増えてきたせいか、熟達してきたその波が引くかのごとき手際と撤退に際する阿吽の呼吸はまさに見事の一言。
――というか、こんなことでモンスターと戦うそのノウハウを生かすなよ。
そんなオレのつっこみは、すでに彼女たちには届かない。
またメノウさんたちはオレたちの話に一定の理解を示しており、オレとレオンとのその会話を茶化すわけでもなく鼻歌を歌いながらハンガクさんと一緒にテントを片付けていた。
だが、この話をした瞬間「イーヴァ君とのお土産話よろしくね!」とか「らぶらぶいーなー」とか興奮気味にのたまっていたあたり、彼女らは彼女らで平常運転である。
「ううっ! 僕をソロじゃ満足できない身体にしておいて、イノ君、君はなんてひどいヤツなんだ!」
「黙れ!」
こいつはこいつでどうしてこうも周りに誤解されるようなセリフをぽんぽんと吐き出すのだろうか?
助けを求めるようにオレはイーヴァを見る。
「なぁイーヴァ、お前からもなにかいってやってくれ」
「んぁ?」
しかしイーヴァは自分が頼られるなんてことは露ほども思っていなかったらしく、間抜けな声を上げた。
「ん~……なぁ、レオン。一週間かそこら別行動とるだけなんだし、長い休みと思ってお前も羽根を伸ばしてきたらどうだ? それに、中央広場は立ち退きを言い渡されたんだしさ」
そう、おとといに起きたデッドミート事件のせいか逃げるように立ち退きに応じる家主や浮浪者が出てきており、おかげで冒険者ギルドはようやくまとまった土地を手に入れたのだ。
しかもたった一日でこれである、立ち退き交渉や立ち退きの日取りも考えればまだまだ土地が増えるとか。
そのため仮設住宅を建てるにあたり、建材やプレカット材運搬の理由からいつまでも中央広場でくだを巻くオレたちが邪魔になったのである。
またギルドも本部建設や業務移行に伴い、今日の午後から一週間後の午前中までの間は依頼の発注や素材などの売買を完全ストップさせるんだとかなんとか。
それについては暴動が起きるかとも思ったが、しかし長期の運搬依頼や仮設住宅建築の人手としてあますところなく契約していたため、反発はなかったようである。
さておき。
「つーか金だけは腐るほどあるだろ? それで良い宿に泊まったり旨い飯をたべて経済に貢献しとけ。まあ? うちの阿呆には経済っていう概念がないせいでアタシも駆りだされるハメになったんだけど?」
イーヴァが小憎たらしい笑みを浮かべ、皮肉交じりにそんなことを言う。
とはいえオレは命と名誉の値段を払っただけだというのに……いや、今回の依頼を引き受けるための口実にもなっているのでこの程度の諫言、甘んじて受けよう。
「ふっ……どうやらイーヴァ君はわかっていないようだね……ソロがなにゆえソロであったかという理由を! そして今知るが良いさ! 見ず知らずの人に自分から『遊びに行きましょう』と話しかけるこの妙なハードルの高さを!」
「いや、ソロって。一応とはいえ私たちがいるでしょうが……」
「でもやることといえば毎日毎日オセロか料理か運搬依頼じゃないか! さすがの僕でも一週間も同じ相手とオセロは飽きちゃうよ! それよりもイノ君! 僕が養ってあげるからいますぐ依頼をキャンセルして来るんだ!」
その瞬間、湧き上がる黄色い悲鳴。
「くそっ! やつら戻ってきやがった!」
彼女らを散らすように、オレは再び吼える。
「……あー、平和だなぁ」
だが、オレの苦悩や奮戦など興味がないといわんばかりにイーヴァは空を見上げ、ポツリとそんなことをつぶやいた。
[jump a scene]
すがりつくレオンとそれを見て黄色い声を上げる女性プレイヤーを振り切り、オレとイーヴァは冒険者ギルド仮設本部の事務所に割り当てられたテントにやってきた。
「うむ、ようきてくれた」
そこではすでにヤコが七人の少年少女とともにオレたちを待ちかねており、その少年少女は皆が皆なんらかの種族に変異していた。
ただ、オレたちがやってきたにもかかわらず地べたに座っていたり仲間たちと雑談をしているのは子供ながらの愛嬌というヤツか。
「……一応は予想していたが、やはりマンツーマンじゃないようだな」
「うむ。年齢が低いゆえ身体ができておらん。じゃが誘拐事件があった手前、多少なりとも戦闘ができねば将来的に自らの身を守ることもままならぬじゃろう。ゆえに儂はパーティを前提として動くことを考えておる」
「なるほど。――が、それにしても年齢がずいぶんと低いな?」
ざっとみたところ小学生か中学生くらいだろうか? 全体的に体格が小さい。
「サンプルも少なく機材もない故まだ推測の域を出ておらぬが、うちの有識者――と言ってもただの医大生やら薬剤師免許を持つ者たちなんじゃが、そやつらが言うには『体重あたりの摂取量が関わってる可能性がある』だそうじゃ」
ああ、そういえば確かに海底遺跡でメノウさんが「食べ過ぎなければ」と言っていたな。
とすると最初にもらえる六つの秘薬もプレイヤーたちを確実に覚醒させるためにあれほど侵食率を上げる必要があるのか。
オレたちの食べているレーションだと侵食率が上がったり上がらなかったりするからな。
いや、小数点以下では上がっているのだろうが、しかし、それでは不安定すぎる。
「ただ、世界渡りの才能と種族変異の関係はいまだよくわかっておらぬゆえ、はたして本当に体重あたりの摂取量なのかと首をかしげるところじゃがな。才能があれば変異するとか意味がわからんし理由も見出せん。有識者たちも日々首をひねっておるよ」
まぁ、それがネックだからこそ侵食率の謎はいまだ解けていないのだろう。
「……もし、この世界がゲーム基準なら、それはワールドデザインのせいで深い意味なんてないんだろうな」
「くふっ。それはなんとも身もふたもない理由じゃの。じゃが、ゲームとこの世界は類似する点は多いゆえあながち間違いでもないのかもしれぬ――さておき。ホレお主ら、いい加減雑談をやめてそこへ並べ」
ヤコはいつものように手を叩き、彼らの雑談を中断させる。
「では、教えたとおりに自己紹介と自らの変異種族を述べよ」
「あー……ランディ。鬼人」
最初に自己紹介をしたのはあの時助けた赤毛の少年だった。
七人の中ではもっとも身長が高く、またそれ相応に年齢も高いのか、まるで他の六人を守るかのように一歩前に出る姿はそのワイルドな容姿とあいまって勇ましい。
「僕はアレックス。トレントらしい」
二人目はオレと同じ黒髪のトレント。腕は樹木で覆われているためそれなりに太いが、しかし七人の中では栄養が足りないせいか一番華奢で、彼に発現している種族とあいまって若干の不安を覚えてしまう。
「ドラゴンハーフっていうやつになったチャドっす」
三人目はずいぶんと軽い感じの少年。アレックスと同じく細身ではあるが、しかしこれまで日雇い労働で食いつないででもいたのか、その薄い服越しでもわかる程度には体が出来上がっている。
「ライカンスロープの……犀? デニー」
四人目、チャドと同じようにくすんだ茶髪をしている彼は、しかし犀の種族特徴のためにチャドよりも太く発達した四肢をしていた。
「クレッセントのベッキーよ」
五人目からは女の子、彼女は珍しいことに鮮やかな金色の髪を持っている。
まだ幼さが残り、さらには体格的には中学生くらいだが、しかし身長的には女の子の中で最年長であろう。
「カミラ、アーマード」
六人目はやはりというかなんというか、その種族特徴のせいでメノウさんと同じように布きれを胸の位置で縛ったチューブトップとハーフパンツという、小学生程度の年齢の癖にずいぶんとセクシーな服装をしていた。
しかし、発育に関しては現時点でも有望株なので、せめてあと十年後ぐらい――と、そこまで考えて、イーヴァに殴られた。
「えっと……クロエ。ライカンスロープの狐? です」
最後の子はオレとレオンに売春を持ちかけた少女だった。
まだまだやせほそっているが、しかし冒険者ギルドでご飯を食べさせてもらったのか、他の六人と同じように血色がずいぶんと良くなっている。
「さて、この二人が、おぬしらを指導する先生方じゃ。男性のほうがイノ殿、女性の方がイーヴァ殿じゃ。どちらもベテランゆえ、しっかりと話を聞き、師事を仰ぐといい。……ああ、イノ殿のほうは儂の大切な人ゆえ、手を出すなよ?」
「ねぇよ」
「くふっ! そのツンデレ具合にきゅんきゅん――こほん。主様、それにイーヴァ。この子らが主様たちに依頼を出した新人じゃ。レーションは先にたらふく食べさせておいたゆえ、後はよしなに」
「よしなにって……なぁ、アタシたちはなにを教えればいいのさ」
「なにって、さっきも言ったように戦い方、かの? いくら一週間は業務休止状態でも儂らは雑務が多いし、なおかつ儂らのアイテム欄はギルドの売り上げやら書類やらで一杯じゃから死ぬ可能性がある仕事はできん。それに、儂にいたっては預かっているものがお金だけに、これからしばらく軟禁される予定じゃ」
「軟禁って……」
「セキュリティの問題があるゆえ場所はいえぬが誇張ではないよ? それに、儂がこれまでの戦で後ろからえらそうに指示を飛ばすだけじゃった主な理由がそれじゃ」
「……ああ、まぁ、それもそうか。今までテントだったもんな」
「はよう据え置き型のばかでかい金庫を発注したいの。さすれば儂も久方ぶりに戦える……まぁ、なにもかもギルド本部ができてから、じゃが」
はぁ、とヤコがため息をつく。
「まぁ、そんなわけじゃ。こやつらに覚醒技の使い方とか日本語とか戦い方を教えてやってくりゃれ」
「――ちょっとまて、日本語?」
「うむ! 日本語じゃ!」
「はぁあああっ!?」
オレとイーヴァは目をむいて声を上げる。
なぜ日本語かといえば、システムウィンドウはすべて日本語だからである。
オレたちは何気なく異国の言葉を話し読み書きをしているが、しかし彼ら彼女らはそうではないということなのだろう。
そして、つまりそれはいくら定型文とはいえ日本語も平行して教えていかなければならないということで……あまりにも無茶振りが過ぎる!
「ん? そんなの当たり前じゃろう? そも、儂らは異界の渡り人、どのような理屈であれ自国の言葉で意思疎通ができるようにするのは前提じゃ。が、しかしもともとこの世界にいる彼らは違う。主様ともあろうお人がそんなことをを見落とすとは……やれやれ。じゃが、そんなうっかりな主様にもきゅんきゅんきちゃうの!」
そんな、彼女の思わぬ発言に、オレとイーヴァは二人揃って顔を見合わせ、そして天を仰いだ。
[jump a scene]
さっそくというかなんというか、戦闘訓練のためにオレたちはヤコから支給されたルイスの鍵を使い、彼女から指定された世界――地下世界へと飛ぶ。
そしてオレたちはその地下世界の端、街のはずれにあり地下世界を一望できるカグラダイという高台へと降り立った。
眼前に広がるそこはその名の通り地下に存在する世界であり、有り余るレンガを組み上げて作られた石と鉄、そして職人と武人たちの国だ。
中央には水源となる地底湖がたゆたっているが、その様相は自然の多い他六世界とはあらゆる意味で毛色が違う。
またここは地下というだけあって国土は狭く、天井にあいた『天穴』と呼ばれる穴だけが太陽の代わりである。
しかし、この天穴というのが曲者で、足を踏み外した中型以下のモンスターや転落死してしまったモンスターの屍骸をエサとする甲虫型のモンスターが日に何度も落ちてくる。
普通ならこんな無限に敵が沸き続けるような世界、訓練場所としては適切ではないのだろうが、しかし沸いてくる――いや、落ちてくる場所が決まっているので逆に安全だったりする。
ただし、常に天穴の下で戦いが起きているという点をのぞけば、だが。
「どうだ? 初めて井戸の外へ出た感想は?」
そんな異形な世界のあり方に、この世界へと初めてやってきたランディたちは目を丸くしながらしきりに周囲を見渡していた。
「すごい……けど井戸の外ってどういう意味だよ」
「そういう言い回しがあるだけだ。意味は――世界は広い、そう覚えておけ」
「……狭くね?」
「ああ、そうだな。確かに狭い。まるで井戸の底だ」
オレは苦笑し、自分より頭ひとつ分くらい低いランディの頭をなでる。
そしてそれを見ていたイーヴァはすかさず残りの六人をオレたちから引き離し、ひどく真面目な声でこういった。
「みんなよーく覚えておけ。イノはああやってだれかれかまわず落としていく伊達男だ。その証拠に二人、一月もかからずに落とされている。いいか? 男女問わずだ、全員気をつけろ」
「はーい」
イーヴァ……思わずため息がもれる。
それに心なしか、オレから頭をなでられているランディも身構えていた。
「おっさん、もしかして……!」
「ねぇよ」
つっこみ、空を見上げる。
というかオレはまだおっさんじゃねぇ……今はまだ訂正する気はないが、教えることを教えたら次は礼儀を叩き込もう、心に誓う。
「……まぁいい、説明を続ける。ここは地下世界、空からモンスターが降り注ぐ危険地帯だ。特産品は地底湖に生息する魚や鉱石、あと鏡や首飾りなどの鉱石加工品だ。それと、ここでは塩が同じ重量の金属と交換されるくらい貴重だ。自然、料理の味は貴族が食べる料理みたいに薄味になるから覚悟しておけ」
「うわぁ……」
予想通り濃い味に慣れているらしい。オレのその一言に七人が一斉に顔をしかめる。
……そういえば召喚当初からイーヴァが鏡を持っていたな。交易品だし、ここから買っていたもののあまりだろうか?
「さておき、さっさと街へと降りるぞ。先に宿の確保、授業――勉強はそれからだ」
なお、この世界にも人間世界のように日常的に使われているサンドのような通貨単位もあるのだが、しかし人間世界と同じようにガルド銀貨だけは普通に使える。
そのことに多少違和感を感じないでもないが、しかしもともとはひとつの世界だ。するとガルド銀貨は大昔、それこそ世界がひとつだったころから続く由緒ある本位貨幣なのかもしれない。
――たった一枚の銀貨で、ロマンが広がるな。
そんなことを考えながら宿の予算を確認しようとアイテム欄を開いて、気付く。
「……あー、イーヴァ。折り入って話があるんだが」
「おい、まさか」
「すまん。ヤコからはルイスの鍵しかもらってない」
たぶん『領収書もって来い』ということだとは思うのだが……それを大きな買い物をして金がないところに、なおかつまだ社会にすら出ていない学生のオレにそういうことを当然のように期待するとか、少々酷ではないだろうか?
いや、あの腹黒狐のこと、絶対そこらへんをわかった上で説明してないな。そしてオレが「金がないから経費よこせ」と金を貰いに行けば、それにかこつけて別な依頼も捻りこむ気だ。
今回はそこそこ貯蓄していたイーヴァがいたからよかったものの、この依頼が終わったらいやみのひとつでも言ってやろうか?
「はぁ……わかった。あとでちゃんと返せよ?」
「……すまん」
みんなの視線が、痛かった。
[jump a scene]
「――さて、無事に宿を取ったこともあり、早速ながら講義……いや、勉強会を始める」
イーヴァが宿を取っている間、オレは彼から借りた数枚のガルド銀貨を片手に準備を済ませ、男子に割り当てられた部屋にみんなを集めて座学を始める。
なぜなら彼ら、あの幼女狐の言い分を信じるならば日本語が読めないというのだから。
だが『勉強』という言葉を聴いて、少年たちは顔をしかめる。
ほほぅ? そんなに勉強が嫌か。いや、潰しの利かない勉強だからな。嫌うのもある意味当然か。
だが安心するがいい。
「そう心配しなくとも日本語は非常に簡単だ。がんばれば二日で覚えられる」
そう、ひらがなとカタカナの読み方と発音だけは、な。
皆のほっとする顔を見ながら、オレは心の中でほくそ笑む。
しかし、オレのそんな微細な変化にイーヴァだけが気付いたのか、口をへの字に曲げる。
「わっるい顔……」
「なにを言う。それに事実だ」
オレはアイテム欄から先ほど買ってきたばかでかい獣皮紙とインクを取り出し、基本である四十八文字のひらがなとカタカナを書き出し始める。
そこにさらに発音の仕方も書こうか、とも思ったが、そもそも彼らがこちらの文字を読めるかどうかが怪しいのでやめた。
「それを証明するため、この一覧を作っている間に少し語ってやろう。そもそもだ、世界的に見て日本語が難しいといわれるゆえんはその文字数にある」
ひらがなでさえ基本四十八文字、濁音などもろもろあわせてそれぞれ百六文字――ああ、いや、外来音もあるから百二十文字くらいか? それほどの量を誇っている。
なるほど、そういわれると難しいように思われるかもしれない。
しかしひらがなとカタカナはそもそもが表音文字であるし、そこに母音は五種類しか存在しない。
それに人間が口に出す音を表している時点で数が多いのは当たり前なのだ。
「そのため世界的に見て、ひらがなやカタカナだけなら、日本語は比較的覚えやすい言語だ」
なにせひらがなとカタカナは基本的に一文字につき一音と決まっている。発音だけなら対応表を丸暗記するだけで済んでしまうのだ。
それに文字数が少ないから簡単だと思われているローマ字であるが、ローマ字はそもそも音素文字だ。文字の組み合わせを考えれば日本語とどっこい。名前のことも考えれば発音の数自体はどの言語であろうとも大体似たり寄ったりの状況になってしまう。
「一応文法の違いはあるが、しかし日本語は文法が少し変でも意味は通じるし、時制を装飾語で表せるからな。これほど覚えやすい言語も少ないぞ?」
ただ、そこに常用漢字を含めると文字数は約三千文字。新漢字、旧漢字、非常用漢字もあわせれば約一万文字、そこにさらに丁寧語や尊敬語、古語の名残や漢文などからきた読みや熟語、新しくできた和製語、俗語、略語などが加わるから急に難しくなる。
そうそう、そういう意味では日本は中学生の時点で日本語のほかにさわり程度とはいえ古語、漢文、英語と四ヶ国語も習っているから頭がおかしいな。
……まぁ、それは日本語を勉強する上で必要な事だから仕方がないとして、オレたちが日常目にする文字はローマ字よりもむしろルーン文字に近く、文字数もローマ字よりは少ない。
たぶんもともとの文字が木板を引っかいて書くことを前提に作られており、なおかつ現在でも市井に出回っている大多数がまだ書き心地の悪い樹皮紙であるため、曲線を持つ文字がまだ発達していないのだと推測される。
ただ、先代たちが良質な紙の作り方を伝えているはずだから、もしかすると貴族や商人あたりの裕福層の間ではすでに文字が変化しているかもしれない。
まぁ、オレはそんな文字など見たことがないから実際のところはわからないが――などと、そんなことをつらつらと語っているうちに表が完成する。
「よし、できた」
だが、皆はオレのその雑談の時点ですでにうんざりとした顔をしていて、さらにオレが表を見せた瞬間「うげぇ」と声をもらす。
「……おい、おっさん。簡単じゃなかったのかよ」
「簡単だぞ? ひらがなとカタカナは覚えるだけで読めるんだ。それとも、もう一度説明するか?」
「ならオレたちにもわかる言葉で頼む」
「ははっ! 御冗談を」
オレはそんな風に鼻で笑い飛ばしたが、イノはオレの腕をひっぱり、そして首を横に振る。
「……すまんイノ、アタシも半分くらい右から左へ抜けてった」
「マジか……」
オレは思わず天を仰いでしまった。
ところで種族は人間を含めて七種類あるが、実のところクレッセントとライカンスロープをのぞけば覚醒技は各十種類しかない。
クレッセントは特殊なルーンがあるので十三種類、種族が多岐にわたるライカンスロープでさえ合計十八種類だ。
「つまり、実際のところ日本語を覚える必要はまったくない。覚醒技の励起に必要なのは発声、始動モーションのポージング、そして恥ずかしがらない心とくじけない心、たったこれだけだからな」
あれから体感時間で二時間ほど。イーヴァが夕飯の買出しに出かけ、七人の集中力が切れ頭から煙が出始めたころ、気分転換がてらにオレはそんなことをぼそりという。
もちろん、今更ながらにそんなことを言えば七人ににらまれるのは当然であろう。
「なんだよ! じゃぁこれ全部無駄かよ!」
そしてその言葉を聞いた七人のリーダー格であり、兄貴分であるランディが吼え、皆で一生懸命読んでいた五十音表を掴みあげるや床にたたきつけた!
「せっかくは行まで覚えたのに!」
「お前意外とまじめだな――いやそうにらむな。理由はちゃんとある」
「……んだよ?」
「少なくとも発音練習だけは必要なんだ。そして、発音を覚えるためにひらがなとカタカナの勉強は必須だ。その理由を少しだけ語ってやろう」
そもそも日本語の母音はあいうえおの五種類しかない。
そして先ほども口端に上がった英語の母音はAEIOUの五種類ではあるが、発音はそれぞれの母音に二種類ずつ存在する。計十種類だ。
いや、もっと細かく言えば二文字の母音だとかいろいろいあるのだが、それは一切関係ないので割愛。
「そしてここからが重要なのだが、文化圏というか言語圏が違えば『あ』は『えぁ』、『い』は『いぇ』などなど。母音自体を正しく発音できるのかという問題がある。また、言語圏によっては『存在しない発音』というものもある」
たとえば。とオレはランディが床にたたきつけた獣皮紙を丁寧に広げ、そのすみっこに『ブ』と『ヴ』という文字を書き込む。
「この二つは発音が非常に似ている。極端に言えば口の動きでその差異をつけているに過ぎない。が、たったそれだけでまるっきり違う発音だ」
ちなみに『ヴ』は外来音であり、そもそも日本には存在しない。
「つ、つまりどういうことだよ!」
「つまり、わかりやすく言えば、聞くに堪える程度には発音ができないと悪食――いや渡り人の代名詞である覚醒技が発動しない可能性がある」
たぶんあの幼女狐はそこまで考えて日本語を教えろといっていたのだろう。
――ちなみにオレがそのことに気が付いたのは、皆が「あ、いぇ、う、うぇ、ぅお」と微妙な発音をしていたときなのだが。
だというのに今の今まで言わなかったのはどのみちひらがなは勉強する必要があるし、存外真面目に発音練習していたので黙っていたに過ぎない。
「だから勉強しろ、そういうことだ」
と、そこまで説明して、さっきから怪しかったチャドがとうとうオーバーヒートを起こして気絶した。
くちびるがぴくぴく動いているのは、あいうえおを言わせすぎたためだろうか?
「先は長そうだ」
そんなチャドと慌てふためく六人を見て、オレは苦笑した。




