魔王(憑依) Lv3
『意外にもあっさりとギブアップしたぞな』
「……」
地面にうつ伏せになり、へたばるおれに情け容赦ないアサガオの嘲りが聞こえてくる。
――地下三階。
枷は左腕に三個、右腕に二個、左足に二個、右足に二個、計九個に増えた。
この時点で、おれは両足で身体を支えることが不可能になった。両掌と両膝が地面について足腰が立たない。
後はもう、乳児と同じ移動方法で前進するか、元来た階段を転げ落ちるかの二者択一だった。
「……まさか……たかだかダンジョンを出るだけでこんなに苦労することになるとは……」
かれこれ二時間以上はこの枷と格闘している。
おれの頭の中ではこんなマゾい苦行のようなミッションをこなす予定など勿論、皆無だった。
今頃はすでに地上に出て、草原をハイキング気分で歩き終わって、遅くても町に到着しているはずだったのに。
『他愛無いやつだな、私を教会へ連れて行くのではなかったのかぞな?』
「……うるさいな。こいつはちょっとした休憩だ」
おれは青息吐息で反論するが、このまま正直起き上がれそうにもないのが本音だった。
MMRPGにも肉体の「疲労」の感覚は紛れもなく存在する。仮想現実倫理規定で「痛覚」と「性欲」に制限のかかっている代わりに、それ以外の感覚の解像度は現実のそれ近い形で再現されている。だからこの虚数空間における肉体も激しい運動をすれば息が切れるし、汗をかく、データとして蓄積された「疲労」は、感覚として脳へとフィードバックされもするのである。
ちなみに身体のあらゆる細胞の意見は満場一致で「もう動きたくねえ」だ。
『ちなみに私のレコードは地下二階。ここより更に一階上だぞな』
「どうやってそこまで行ったんだよ」
『ふっふっふ、逆ピットという罠があってな、それを利用した。体力が続く限り行ってみるという無謀を試みだったが結果は死にかけたぞな』
「そりゃそうだろ」
『おまけに引き返すのも大変だった。何日もかけて芋虫のように這ったぞな』
一瞬その光景が目に浮かんできて、口元が引きつる。彼女は笑い話のように語るが、現在進行形でこの地獄を味わっている身としては笑うに笑えない。
とりあえず休むだけ休んで一旦引き返すのも手かもしれない。作戦もないままこれから先、進んでも彼女と同じような目に遭うだけだろう
「――それで結局、この枷は何なんだよ」
『正直、よくわからん』
「役立たずだな」
『うるさい。半年前ここで目覚めたらこうなっていたぞな。以来、ずっとこのありさまだ。おかげでダンジョンからもDDDからも出ることができなくなった』
「なるほどね」
アサガオはレコードという言葉を使っていた。つまり彼女は最低二回でも以上、この枷と鎖を引きずりながらダンジョンを駆け上がるというトライアスロンじみた試みを決行しているという事だ。
わざわざ好き好んでそんなことをするがいるとは思えない以上、そうする動機はひとつしかない。
「もしかしておまえもここから出ようとしているのか?」
『まあな半年間、朝も、昼も、夜も、四六時中、変わり映えのしない石造りの壁を見ていると気が狂いそうになる。引きこもりだって青空くらい見る権利があるはずぞな?』
「ん。ちょっと待て――」
おれは奇妙なことを聞いた気がして、酸素が十分に回っていない脳みそで、数秒前の会話を遡る。
「おまえ今、どこから出られなくなったって言った?」
『ダンジョンとDDD』
アサガオの事もなげな返答。
前者の意味は分かる。だが後者は該当する言葉の意味が分からない。
いやそれがどういう意味なのか汲み取ろうとすると、ありえないこと――いやあってはいけない解釈になる。脳がそれは適切ではないと否定する。
DDDというのはこの仮想空間のことだ。おれたちはアーカイヴというゲーム機を使って、肉体を置き去りにして、脳内でのみこの世界に入り込んでいる。即ちそこから出るということは――。
「……つまり?」
『かれこれログインして四千時間以上になる』
彼女は冗談を言っているのだろうか?
もしくはおれをだまそうとしている?
「つまりおまえは現実に還ることができないのか?」
『かれこれ半年近くだから死んでいるのかもな』
「――」
『どう思う?』
切実さのない淡々とした彼女の声には逆に真実味があった。
けれどもそれだけだ。
根拠のかけらはひとつもない。
「信じられねえな」
『私も他人事ならそう思えるよ』
アサガオの溜息。
どこか疲れているようにも孤独をかみしめるようにも聞こえる。
「まあでも――」
おれは重たい脚を片方ずつ引きずるように動かして何とか身体を起こすと、尻餅をついて壁に寄りかかる。疲れすぎて身体はこの有様だ。
枷がついた右腕に力を入れると肩が限界らしく、がくがくと震える。
構わずに無理やり持ち上げた。
「証拠があるなら信じてみてもいいかもな」
それから人差し指を虚空て、虚空を突いた。




