現実7『死体安置所』
勿論、体調状態を戻すための休養なんてものをとるつもりは毛頭ない。
帰宅するとやることはひとつだった。
ベッドの上には今朝放り投げたままの状態のヘッドホン型電子機器――アーカイヴ。
それを拾い上げると頭にはめて装着する。
アーカイヴは良識ある大人から、砂糖と化学調味料がたっぷり入ったジャンクフード以上のパブリックエネミーとして認識され、根強く販売・使用の停止を呼びかける団体が千以上も存在している。
その実用化が提案されて以来、今日に至るまで脳神経への影響や、中毒性、その他、健康への危険性について繰り返し指摘され続けていた。
版元であるアカシックレコード社の公式のコメントはこうだ。脳波からいつでもユーザーの健康状態をモニターでき、不慮の事態にはネットワークを通じて救急救命センターへのコールが行われるこのアーカイヴのどこに安全面での問題があるのだろうか。むしろ使用時のほうが不使用時よりも生存率が高いことが統計で証明されているというのに。
勿論それは、議論となっている問題に対しての回答にはなっていない。
だが結局のところ電磁波と、白血病、癌、痴呆、パーキンソン病などの病気との因果関係を証明できないまま、携帯電話や変電所の氾濫しているように、アーカイヴは世界で普及し、愛用され続けている。
何故なら誰もその魅力に逆らえないからだ。
まあ僕も例外ではないのだけれども。
ヘッドバンドからのびているコードの先にあるコントローラーを手繰り寄せ、電源をオン。
――イイイイイィィン。
遠くから聞こえてくるような微かな音。
これはアーカーヴが起動し始めたことを知らせる音だ。
けれどもアーカイヴには音声というものを出力する機能がない。
両耳に密着するヘッドホン型のそれは、外見とは裏腹に音楽データを物理振動によって音へ変換するスピーカーのような機能を搭載してはいない。
――イイイイイィィン。
もし耳から蝸牛を介して伝えられてきた空気振動のみを「音声」とするのであれば、これは正確には音声ではない。
『ログ――』
目の前にじわじわと滲むように出現するクリアブルーの何か。それは実態がなく触ることはできないが、くっきりとした形をもつ明朝体の文字映像だった。
けれどもアーカーヴには映像というものを出力する機能はない。
機体のどこを探してもスクリーンへ映像を投影する為のレンズなどは付いていないし、ディスプレイ上に映像を出力させる為の端子も端子穴も存在しない。
『ログインしますか?』
もし眼球という感覚器官を介して、伝えられてくる外界からの光情報のみを「映像」とするのであれば、これは正確には映像ではない。
今この瞬間、僕の脳はアーカイヴによってジャックされている。使用者の目、耳、皮膚、体中にあるあらゆる感覚器官から伝わってくるはずの神経パルスが遮断させられ、代わりにDDDサーバーからの電子パルスが送り込まれることで、そこにあるはずのない音を聴きいて、そこにあるはずのないものを見て、そこにあるはずのない匂いを嗅いで、そこにあるはずのないものに触れている錯覚を体験することができた。
つまりは乱暴に説明してしまうとアーカイヴとはそういう機能の電子機器だった。
『ログインしますか?』
「はい」
あちらへといざなう言葉を僕は躊躇なく肯定。
『死体安置所』。
これはアーカイヴの蔑称のこと。
『公文書保管所』を文字って、ある教育論者が名付けたものだ。
一度ゲームを開始すれば横たわったきり抓ろうが叩こうがログアウトするまで、目を覚ますことのない使用者たちの姿を揶揄したのだという。
実にいいネーミングだと僕は思う。
二度と目を覚まさなければもっと素敵だけども。
そんなことを考えながら過ごす数秒間の後、まるで世界のブレーカーが落ちたように目の前が暗転する。




