第8話 制服よりも、作業着のほうが
校舎修理の日は、朝から木槌の音で始まった。
東棟の窓枠、食堂脇の雨樋、中央塔へ続く渡り廊下のきしみ。手を入れる場所は山ほどあるのに、人手はまだ足りない。だから白銀騎士学校では、その日のうちに直せる箇所へ印をつけ、朝一番で全員に割り振ることになっていた。
アルシャールが割れ窓の枚数を数えていると、背後でキンバリーが変な音を立てた。
笑いを堪えきれないときの音だ。
「どうした」
「いや、別に」
「その顔は別にじゃない」
「だって、見て」
顎で示された先に、ジェシーがいた。
いつもの灰色の制服ではない。丈の短い作業着の上着に、動きやすい細身のズボン。袖口は革紐で留められ、腰には工具袋。髪も高い位置で結び直してあり、額の横に細い後れ毛が一本落ちていた。布の端に時計油の染みがあるせいか、ふだんより輪郭が近く見える。
アルシャールは、持っていた木札を危うく落としかけた。
「……壊れたの?」
ジェシーが不審そうに言う。
「いや」
「返事が遅い」
「朝で頭が回っていないだけだ」
横でキンバリーがにやにやしているのが見えた。
「へえ」
「お前はその顔をやめろ」
「何も言ってないよ」
「言ってなくても分かる」
この日の作業は、中央塔の文字盤へ続く整備通路が中心だった。
昨夜の風で外側の点検板が緩み、放っておくと雨が歯車箱へ回る。ジェシーが上で留め具を外し、アルシャールが下で部材を渡す。ズドラフコヴィチは別の棟の石補修に回っているため、塔の上は二人と、冷やかし半分のキンバリーだけだった。
狭い通路は、片側が塔の外壁、もう片側がむき出しの歯車箱でできている。足元の板を踏むたびに、古い木が低く鳴った。ジェシーは梯子を上がるとき、一度も下を見ない。慣れた動きだった。
「釘」
上から手が伸びる。
アルシャールは言われた本数を渡した。だが次に「短いほう」と言われたとき、なぜか長いものを掴んでしまう。
「それ、長い」
「分かってる」
「分かってないから渡したんでしょ」
「今日はずいぶん細かく刺してくるな」
「今日は、じゃない」
キンバリーが板の端で肩を震わせていた。
「笑うな」
「無理」
しばらくして、外側の留め金が固着していることが分かった。
ジェシーが工具を差し込むが、古い錆が噛んで動かない。アルシャールは梯子を上がって横へ並び、板を押さえた。二人の肩が近い。風が吹くたびに、ジェシーの後れ毛が頬に触れそうになる。
「もう少し左」
「こうか」
「違う。あなたの左」
「それはややこしい」
「現場で迷うと落ちる」
「脅すな」
彼が力を入れると、留め金がようやく軋んだ。
次の瞬間、外れた板が予想より大きく跳ね、ジェシーの足がわずかに浮く。咄嗟にアルシャールが手首を掴んだ。
狭い通路で、体勢が一瞬だけ近づく。
ジェシーの目が、思ったより近くにあった。灰色に見えていた瞳の奥に、光が細く入っている。
「離していい」
先に言ったのはジェシーだった。
いつもの調子のはずなのに、声が半拍だけ遅い。
アルシャールもすぐに手を放した。
「悪い」
「落ちなかったから、別に」
それだけ言って彼女は工具を持ち直す。だが耳の先が少しだけ赤い。
キンバリーがわざとらしく咳払いした。
「真面目に働いてる最中に、空気変わるのやめてくれる?」
「変わってない」
アルシャールが即答する。
「変わってないって顔じゃないけど」
「売店の在庫確認でもしてこい」
「はいはい」
キンバリーは降参の手を上げたが、口元はずっと上がったままだった。
作業は昼すぎまで続いた。
文字盤の裏側にたまった埃を払い、点検板を留め直し、雨の入りそうな隙間へ詰め物をする。中央塔の内部は時計油と古木の匂いが濃く、話す声が歯車箱に反響した。
ジェシーは作業中、いつもよりよく喋った。どの軸が重いか、この歯車が何年前に取り替えられたか、文字盤の外縁に使われている銀の合金が普通のものではないこと。
工具を持っているときの彼女は、言葉の端が少し柔らかい。
好きなものを扱っている人間の話し方だった。
「この主軸、完全に死んでるわけじゃない」
彼女は油のついた指先で金属をなぞった。
「噛み合わせが狂ってるだけ。直せるところまで来てる」
「なら直そう」
「言うのは簡単」
「俺は簡単なことしか言わない。難しいのは現場でやる」
「ずるい理屈」
そう返した口元が、ほんの少し緩んでいた。
作業を終えて塔を下りるころには、陽が斜めになっていた。
校庭ではズドラフコヴィチが若者たちに石積みをやり直させ、食堂側ではカトリーナが包帯の交換をしている。人の手が校舎じゅうに散っていた。
アルシャールは塔の入口で振り返る。
作業着姿のジェシーが工具袋の紐を締め直していた。制服のときより隙があるようでいて、逆に目が離しにくい。
「何」
また見られているのに気づいたらしい。
「いや……その格好、よく似合うなと」
言ってから、自分で遅いと思った。
ジェシーは一瞬だけ止まり、それから工具袋を持ち上げた。
「今さら」
「今さらか」
「朝に言えばよかったのに」
そう言って先に歩き出す。だが耳の先の赤みは、まだ少し残っていた。
横でキンバリーが小さく拍手した。
「やっと言った」
「お前は本当に余計なところを見てるな」
「だって見えるし」
中央塔の止まった掛け時計は、まだ動かない。
それでも、その下を歩く二人のあいだには、朝より少しだけ違う空気が流れていた。




