第7話 教室を空き部屋のままにするな
食堂に火が入って三日目の朝、白銀騎士学校の廊下は、やけに忙しかった。
長いあいだ壁際へ押しやられていた机が、ぎぎ、と床を擦る。窓の近くへ運ばれるもの、黒板の前へ並べ直されるもの、脚のがたつきを木片で噛ませてもらうもの。埃を払うたびに光の中で白い粉が舞い、誰かがくしゃみをして、そのたびにキンバリーが面白がって笑った。
「そこ、通る。机はもう半歩右」
アルシャールが言うと、若い男たちが机を持ち上げ直す。
「教室を空き部屋のままにしておくのが、いちばんもったいない」
「騎士学校なのに、机を並べ替えるところから始まるのかよ」
肩に木屑を乗せた元兵士がぼやいた。
「騎士より先に、町の人間が戻る学校にする」
アルシャールは黒板に白墨を走らせた。
読み書き。算術。応急手当。迷宮地図。
四つの言葉が、乾いた音を立てて並ぶ。
「剣を振る前に、字が読めないと帳面で負ける。怪我の手当ができないと、迷宮へ行く前に人手が減る。地図が読めないと、帰ってこられない」
「夢がないな」
「生きて帰る話は、だいたい地味だ」
そのとき、診療所帰りらしい女が扉を足で開けた。
片手に薬箱、もう片方に洗った布束を抱え、肘で器用に扉を押さえている。髪は手早くひとつに括られ、袖はまくり上げられたままだ。廊下の空気を見ただけで、誰が寝不足で、誰が無理をして立っているかを測ったような目をしていた。
「机を増やすなら、寝台代わりに二列残して」
彼女は挨拶より先にそう言った。
「講習の途中で具合の悪くなる人が出る。壁際へ寝かせる場所が要る」
「助かる。名前を聞いていいか」
「カトリーナ。診療所を見てる。失敗して転ぶ人の数なら、町でいちばん見てきた」
それだけ言うと、彼女は教室の奥にいた少年の手首を取った。
前の日、屋根の補修で落ちかけたという少年だ。包帯の巻き直しを嫌がっていたが、カトリーナは嫌がる暇も与えず椅子へ座らせる。
「傷が開いてる。道具を持つなら先に巻き直す」
「大したことない」
「大したことない怪我を放っておいて、大したことある仕事を失うのがいちばん馬鹿らしい」
低い声だった。
責めるのではなく、逃げ道を塞ぐみたいな言い方で、少年は黙って腕を差し出した。
廊下の向こうでは、別の怒鳴り声が上がった。
石がぶつかる重い音に混じって、野太い声が飛ぶ。
「違う。そこは叩くな。壁は怒鳴れば立ち直る相手じゃない」
覗くと、東棟の割れ窓の下で、大男が若者三人を前に腰を落としていた。幅の広い背中に石粉がつき、片手には金槌、もう片手には半端な大きさの石片。無精髭の奥で口は不機嫌そうに結ばれているのに、相手の立ち位置に合わせて手元をゆっくり見せる。
「お前は手首が強い。なら細かく打つな。大きく合わせろ。お前は逆だ。腕力で押すな、角を合わせろ」
同じことを三人に別々の言葉で言い換えていた。
アルシャールが近づくと、その男は一度だけ目を上げた。
「ズドラフコヴィチだ。石工。昔は下士官もやってた」
「アルシャール」
「知ってる。寝る先生だろ」
「その呼び方、広まりすぎじゃないか」
「覚えやすい名は悪くない」
そう言いながら、彼は若者の持ち方を直した。
「ほら、今度はお前の歩幅でやれ。遅い奴に速い手を押しつけると、仕事は嫌いになる」
午前のうちに、空き教室は四つ埋まった。
一つは読み書きの部屋。ジェシーが古い帳票の余白を切り分け、名前を書く練習から始める。子どもだけでなく、字を忘れた元兵士や、数字に弱い店手伝いの女も座った。
一つは算術の部屋。銅貨と豆袋を使って、売り上げの足し引きを覚える。食堂の札を見ていた子どもたちが妙に食いついた。
一つは応急手当の部屋。カトリーナが布の裂き方、止血の順番、熱のあるときにしてはいけないことを教える。
最後の一つは迷宮地図の部屋。壁に大きな紙を貼り、浅層の通路、裂け目の位置、戻る目印を書き込む。ズドラフコヴィチが石壁の見分け方を話し、アルシャールが補給線の線を赤で引いた。
最初は、皆どこか借り物の顔をしていた。
学校へ入るのに、肩をすぼめる者も多かった。若いころ試験に落ちた記憶が残っているのかもしれないし、もともとここへ入る資格がなかったと思っているのかもしれない。
黒板の前に立つだけで、顔が固くなる。
その空気を破ったのは、カトリーナだった。
応急手当の部屋で、包帯の巻き方を教えたあと、彼女は何でもない顔で言った。
「ここは、選ばれた人だけが入る部屋じゃない。転んだ人が戻ってきて、次はもう少しましに転ぶ方法を覚える部屋」
くすり、と教室の隅で笑いが起きた。
「転ばない方法じゃなくて?」
と未亡人が尋ねる。
「そんなものがあるなら、診療所はとっくに暇」
カトリーナは包帯を結び終えた少年の腕を軽く叩いた。
「でも、転んだあとの手当は覚えられる」
昼前には、迷宮地図の部屋で小さな口論も起きた。
読み書きのできない若者が、白墨を持ったまま手を止める。
「字なんて今さら覚えても、迷宮じゃ腹は膨れない」
するとジェシーが、黒板の地図の脇へ数字を書いた。
薬草一束。鉱石一袋。銅貨。銀貨。
「字が読めないと、持ち帰った数をごまかされる」
「……」
「帳簿を読めないと、借金してるのが自分か店かも分からない」
「言い方が刺さるな」
アルシャールが口を挟むと、ジェシーは肩をすくめた。
「刺さらないと、覚えないことがある」
そして若者へ白墨を返す。
「一文字ずつでいい。迷宮の帰り道みたいに」
昼の鐘は鳴らない。
中央塔の掛け時計がまだ止まったままだからだ。
それでも教室から人の声が漏れ、廊下に靴音が重なり、黒板の粉が指先につく。止まっていた校舎に、少しずつ授業の時間だけが戻ってきていた。
最後の部屋で、ズドラフコヴィチは石積みの練習をしていた。
若者のひとりが何度やっても石を斜めに置く。周りが笑いそうになったとき、大男は自分も床へしゃがみこんだ。
「お前の手は小さい。なら一段目を欲張るな」
そう言って、石を半分の大きさに割ってみせる。
「町を支える仕事は、速い奴だけで回らん。遅い奴の手でも続く形にする」
若者はもう一度やり直した。
今度は傾かなかった。
それを見た周りの目が、ほんの少し変わる。
夕方、机を戻す必要はなくなった。
誰かが勝手に席を決め、誰かが黒板を拭き、誰かが次の時間に使う布と紙を置いていったからだ。
アルシャールは廊下の端に立ち、開いた扉を順に見た。
食堂からは豆を煎る匂い。教室からは読み上げる声。診療用の水を運ぶ足音。石を打つ乾いた音。
空き部屋だったはずの場所に、人の用事が詰まっている。
キンバリーが後ろから顔を出した。
「ねえ、これ、もう学校っぽいね」
「ぽい、じゃなくて学校だ」
「でも前より、お腹すいてる人にやさしい学校」
その言い方が妙にしっくり来て、アルシャールは少しだけ笑った。
「それでいい」
白銀騎士学校は、その日から、剣だけを学ぶ場所ではなくなった。
戻ってきていいと言われる教室が、一つずつ増えていった。




