第6話 食堂に火を入れる
売り窓を開けたのは、日が西へ傾き始めたころだった。
古い木枠を押し上げると、外気といっしょに町の匂いが入ってくる。石畳の乾いた埃。市場に残った青菜。壁際の湿り気。そこへ食堂の湯気が混ざり、塩と油と燻した香りが通りへ流れた。
最初の客は、様子見の顔をした元兵士三人だった。
昨夜、槍を持って動いた男たちである。肩幅ばかり広く、財布の紐が固そうな顔をしている。
ひとりが腕を組み、値札を睨んだ。
「銅貨二枚でこの量か」
「多くはない」
アルシャールは正面から答えた。
「だが、温かい。塩は効いてる。歩きながら食える。鍋を待つ時間がない人間向けだ」
「ずいぶん言う」
「誤魔化して売るほど余裕がない」
男たちは顔を見合わせた。
そして一番年長らしい男が、銅貨を二枚、窓台へ置く。
「じゃあ、その肉皮せんべいとやらを」
キンバリーがぱっと身を乗り出した。
「塩強めにする?」
「選べるのか」
「最初の客だけ」
「じゃあ強め」
「賢い」
アルシャールは横目で睨んだが、止めはしなかった。
肉皮を細長く切り、鉄板で表面を焼き、最後に塩と香草の粉を軽く振る。ぱち、と音が立ち、香りが立つ。紙包みに入れて渡すと、男はまず疑い深そうに匂いを嗅ぎ、次にひとかじりした。
噛む。
もう一度噛む。
それから無言で親指を立てた。
「おい」
隣の男が即座に銅貨を出した。
「俺は燻し芋」
「豆もつける?」
「つける」
「つけるのかよ」
「どう見てもつけたくなる流れだろ」
そこから先は、流れができた。
市場帰りの女店主が、持ち帰り用に紙包みを二つ。
荷運び帰りの御者が、食べながら歩けるものを一つ。
子どもの手を引いた母親が、教室に残る家族のぶんまで三つ。
匂いに引かれて立ち止まった若者が、銅貨を握りしめて一番安い塩焼き豆を買う。
売り窓の前に並ぶ列は長くない。
だが途切れもしない。
食堂の中ではジェシーが数を記録し、釣り銭を分け、売れ筋を板へ書き足していく。キンバリーは客の顔を見るたびに声色を変えた。元兵士には短く、子どもには勢いよく、老女には包みを持ちやすいように折り方を変える。
さっきまでつまみ食いの現行犯だった娘とは思えない働きぶりだった。
「おい、寝る先生」
窓の外から声が飛ぶ。
「その呼び方やめろ」
「名前を知らないんだよ、町の連中はまだ」
「アルシャールだ」
「長い。寝る先生でいい」
元兵士たちが勝手に頷き合う。
そこへキンバリーが平然と口を挟んだ。
「寝る店長でもいいよ」
「悪化させるな」
「校長代行だと長いし」
「選択肢が全部雑だな」
笑いが売り窓の前に広がった。
通りすがりにその輪を見た人間が、何の列か分からず立ち止まる。立ち止まれば匂いが届く。匂いが届けば財布に手が伸びる。
商売は、時々こういうふうに始まる。
日が落ちるころ、食堂の竈の前は蒸し暑いほどになっていた。
アルシャールは鍋をかき回しながら、窓の外を見た。昨夜は悲鳴が走っていた通りに、今日は紙包みを手にした人間がいる。歩きながら食べる。誰かに半分渡す。子どもが塩焼き豆をぽりぽり噛む。大きな変化ではない。
けれど、止まっていた町に流れが戻る音がした。
最後の客は、朝に食堂の値札へ文句をつけていた元兵士だった。
今度は文句も言わず、銅貨を置く。
「同じものを二つ」
「気に入ったのか」
「家の分だ」
それだけ言って受け取り、男は少し気まずそうに視線を逸らした。
アルシャールは何もからかわなかった。
そういう買い方ができるようになったのなら、それで十分だ。
窓を閉めたあと、ジェシーが売上を数えた。
銅貨、銀貨、銅貨。指先が早く動く。
「仕入れがほぼ残り物だから、今日は黒」
「どれくらい」
「暖房一日分には足りない。でも、灯油半樽と塩の補充には届く」
言いながら、彼女の声がほんの少しだけ軽くなる。
帳簿の赤い欄に、初めて小さな黒字が入ったのだ。
キンバリーは空になった木皿を持って、にやりとした。
「ね。今日から売れるって言った」
「認めよう」
アルシャールは竈の火を弱めた。
「お前はつまみ食い犯じゃなく、売店係だ」
「看板娘がいい」
「自分で言うのか」
「言ったもん勝ち」
ジェシーが帳面から顔を上げる。
「給金は」
キンバリーは一瞬だけ黙り、すぐに顎を上げた。
「まずはまかない」
「現実的だな」
「腹が減ると売れ方が見えるから」
食堂の壁に、火の明かりが揺れていた。
閉じたはずの場所に、人の声が残っている。鍋の底をこする音がする。売上を数える音がする。明日の仕込みを相談する声がある。
昨日の夜には、ここが避難のための箱にすぎなかったとは思えなかった。
アルシャールは、最後に少しだけ残った塩焼き豆を指でつまんだ。
口へ入れる。塩気が強く、噛むと豆の甘みが遅れて来る。酒は飲めない。だが、こういう食べ物が人を引き止めることは知っている。
目の前の火を見ながら、彼は静かに言った。
「ここからだ」
「聞こえない」
とジェシーが言う。
「独り言だ」
「なら、もっと大きく言えばいい」
「嫌味か」
「提案」
その横でキンバリーが、空の皿を抱えたまま笑う。
「じゃあ明日は、もっと売ろう」
その一言に、食堂の空気が確かに前を向いた。
外では、中央塔の止まった掛け時計が、相変わらず六時三分を指したままだった。
けれど校舎の中では、もう別の時間が動き始めている。




