第5話 酒は飲めないが、つまみは任せろ
昼を過ぎるころには、校舎の空気が昨夜とは別物になっていた。
泣き声が消えたわけではない。怪我人がすぐ治るわけでもない。だが、廊下を行き来する足音に目的が生まれている。東棟では毛布を干し、西棟では割れた窓へ板を打ち、食堂では鍋が運び込まれた。
アルシャールは食堂の中央で、長机の上に在庫を並べていた。
干し豆。芽を取った芋。塩。かろうじて食える燻製肉の端。油。酸味の強い酢漬け野菜。古くなりかけた硬パン。
立派な献立にはならない。
けれど、人を呼ぶ種にはなる。
「汁物を出すの?」
入口のところで、知らない声がした。
振り向くと、背の低い娘が扉の陰から中を覗いていた。耳が少し尖り、灰色の髪のあいだから獣のそれに似た丸い耳が覗く。半人狼だろう。鼻先をひくつかせ、並んだ食材の匂いを確かめている。
「芋、豆、肉皮……あ、これ絶対うまいやつ」
「勝手に評価するな」
「じゃあ味見する」
「もっと勝手だな」
娘は軽やかに食堂へ入り込み、机の端の干し芋へ手を伸ばした。
アルシャールはその手首を掴む。
すると娘は素早く体をひねったが、半歩遅い。食べ物を狙う動きに慣れていても、止める手の角度までは読めなかったらしい。
「盗るな」
「盗ってない、今から食べるところ」
「それを盗ると言う」
「細かい人だなあ」
「兵站は細かくないと人が飢える」
娘はむっとした顔をしたあと、鼻を鳴らした。
「キンバリー」
「名乗れば罪が軽くなると思うな」
「名前も知らない相手に説教されたくないから名乗っただけ」
「アルシャール」
「へえ、寝る先生」
「もう広まってるのか……」
そのやり取りを見ていたジェシーが、帳面を抱えたまま言う。
「朝から三回つまみ食い未遂。市場でもやってる」
「未遂なら罪じゃないでしょ」
「四回目を現行犯で押さえた」
「数え方が姑息」
だがアルシャールは、キンバリーの目つきを見ていた。
飢えた人間の目だ。ただ、泣きつく方向ではなく、先に手が出るだけで。
腹を空かせた者は、売り方に敏いことがある。
「ひとつ聞く」
アルシャールは手を離した。
「町で今、銅貨を出してでも欲しいものは何だ」
「温かくて、すぐ食べられて、歩きながらでも食べられるやつ」
答えが早い。
「それと、匂いが勝つもの。人って、腹が減ってると匂いに負ける」
「よく分かってるじゃないか」
「負け続けて生きてきたから」
アルシャールは机の上の食材を組み替えた。
鍋で煮るぶんとは別に、焼いて香りが立つものが要る。芋は潰して薄く伸ばし、油で表面を焼けば持ち帰りやすい。燻製肉の端は細かく刻み、豆と混ぜて塩を利かせれば噛むほど持つ。硬パンは砕いて酢漬け野菜と和え、焼いた芋の上へ少し乗せる。
腹を満たす主食ではない。
だが、銅貨一枚、二枚で買え、酒場へ行けない者でも手が届く。
町の足を止める匂いになる。
「……つまみだ」
思わず口に出る。
ジェシーが聞き返す。
「なに」
「酒場のつまみだよ。飲み物が主役じゃなくても売れる小皿と手持ちの軽食。量は少なくても、塩と油と香りで満足感を作る」
キンバリーの耳がぴくりと立つ。
「それ、今日売れる」
「さっきから同じことを言うな」
「だって売れるもん。夜の町って、鍋を待てない人がいっぱいいる。家に帰る前に一口欲しい人。働いたあと、銅貨二枚だけ使いたい人。子どもに持って帰りたい人」
彼女は机の周りを回り込み、食材を覗き込んだ。
「豆は塩を利かせる。芋は表面をかりっと。肉皮があるなら細長く切る。匂いが立つように」
「詳しいな」
「酒は飲めない歳でも、横でつまみは食べる」
アルシャールはそこで初めて、少しだけ笑った。
「奇遇だな。俺も酒は飲めない」
「なのに、つまみの顔してる」
「つまみの顔とは何だ」
「塩と油の配分で真剣になる顔」
ジェシーが横から淡々と足す。
「今、確かにそういう顔」
「お前まで言うのか」
笑いが起きた。
食堂に人の笑い声が戻ったのは、閉鎖前でも珍しかったかもしれない。少なくとも、ジェシーは少し驚いたように周囲を見た。
その後は早かった。
市場の女店主が使い古しの木札を持ってきて値札を書き、御者が外の売り窓を開け、元兵士が飛んだ蝶番を打ち直す。キンバリーは頼んでもいないのに客の導線を考え始め、入口から売り窓までの動きを一度自分で歩いて確かめた。
「ここ、匂いが逃げる。鍋はもっと奥。焼くのは窓の近く」
「なんでお前が仕切ってる」
「売れる形を作ってるだけ」
アルシャールは竈に火を入れた。
最初は煙がむせ返るように上がったが、煤を吐き切ると炎は安定した。鍋が鳴り、油が薄く泡立ち、芋の表面が色づく。塩を振った豆を鉄皿で煎ると、香ばしさが一気に食堂へ広がった。
窓の外で、人の足が止まる音がした。
匂いは正直だ。
腹を空かせた町人は、理屈より先に鼻で来る。
「名前を決める」
キンバリーが木札を持って叫ぶ。
「塩焼き豆! 燻し芋! 肉皮せんべい!」
「勢いだけで決めるな」
「でも分かりやすい」
ジェシーが帳面を見ながら言う。
「記録する側としては助かる」
「よし、採用」
アルシャールは芋を返しながら、竈の火の向こうを見た。
昨夜まで冷えきっていた場所に、今は湯気がある。
借金は消えていない。窓も割れたままだ。けれど、ここから銅貨一枚が動けば、町の時間もわずかに前へ進む。
止まっていたのは掛け時計だけではなかったのだと、火の色が教えていた。




