第4話 黒板の前の寝落ち校長
アルシャールが目を開けたとき、朝日が目に痛かった。
窓から差し込む光は細い金の筋になって教室を横切り、舞い上がる埃までよく見える。背中には毛布が二枚かかっていた。頭の下には、いつのまにか畳まれた上着が敷かれている。誰かが無理やりでも寝かせたらしい。
起き上がろうとして、身体の重さに息を止めた。
全身が水を吸った布みたいに重かった。指先にまで疲労が詰まり、まぶたの裏にはまだ昨夜の静止した町が残っている。
「起きた」
教壇の横から声がした。
ジェシーが腕を組んで立っていた。制服の襟は少し乱れ、髪も昨夜より崩れている。けれど手にはもう帳面がある。
「六刻半寝てた」
「もっと寝かせろ」
「もう昼前」
「人を起こす言葉が冷たい」
「昨日の夜、立ったまま倒れた人に言われたくない」
そこでようやく、教室の様子が目に入った。
机は壁際へ寄せられ、床に毛布と藁袋が並んでいる。避難していた家族は別室へ移ったのか、ここには子どもが三人だけ残っていた。そのうちの一人が、黒板の前で背伸びをしている。
子どもは白墨を握りしめ、最後の一本線を引いて満足そうに下がった。
黒板いっぱいに、ぎこちない大文字で書かれていたのは、
ねるせんせい
だった。
教室が静かになったあと、ふ、と誰かが吹き出した。
次の瞬間、それが伝染する。
別室から様子を見に来ていた母親が口元を押さえ、壁際の老人が肩を震わせ、昨夜まで険しい顔だった御者まで声を上げて笑った。
ジェシーは眉間に皺を寄せたままだったが、視線を逸らしたところを見ると、たぶん耐えている。
アルシャールは黒板を見上げ、ため息をついた。
「訂正しておくが、寝るために助けたんじゃない」
すると白墨を持った子が、胸を張って言った。
「でも、助けたあと寝てた」
「事実は強いな……」
笑いがもう一度広がった。
昨夜の恐怖が完全に消えたわけではない。それでも、笑える隙間が生まれたのは大きかった。凍えて縮んでいた空気が、少しだけほどける。
ジェシーが帳面を開く。
「確認する。死亡者なし。大怪我三人。軽傷多数。東棟一階の窓は二枚割れた。食堂側の扉は蝶番が一つ飛んだ」
「魔物は」
「町の外れへ戻ったものと、壁際で討たれたものがいる。元兵士が三人、槍を持って動いた」
「住民に使える人がいるな」
「昨夜までは、そう思ってなかった人が多い」
教室の入口に、一人の大柄な男が現れた。
肩に包帯を巻いた元兵士で、昨夜槍を持っていたひとりだろう。彼は頭を掻きながら、気まずそうに言う。
「校長代行さんよ」
「その呼び方はまだ早い」
「じゃあ、寝る先生」
「定着させるな」
教室にまた笑いが起きた。
男は少しだけ表情を緩めてから続けた。
「昨夜のことだが……あんた、町の端から端まで走ってたろ。俺は見た。坂の途中で、うちの親父を背負ってた」
「夢でも見たんじゃないか」
「なら、助けられた夢だったな」
男はそれ以上追及しなかった。
証明はいらないのだろう。助かったという結果が、もうそこにある。
アルシャールは毛布を払い、ようやく立ち上がった。足元はまだ頼りない。だが立てる。立てるうちに言うべきことがある。
彼は教壇の前へ進み、黒板の「ねるせんせい」の下に立った。
教室の外にも人が集まり始めていた。
避難した住民。子どもを抱いた母親。元兵士。市場の店主。昨夜遅くまで走った若者。
みな顔色はよくない。寝不足で、寒くて、先が見えない顔だ。
だからこそ、曖昧な慰めは要らない。
「聞いてくれ」
笑いの残り香が静まる。
「昨夜、助かったのは運だけじゃない。この校舎に部屋が残っていたこと、毛布が少しでも残っていたこと、扉の鍵が生きていたこと、走った人間がいたこと。全部が揃ったからだ」
アルシャールは教室を見回した。
「つまり、ここはまだ使える」
ざわ、と人の気配が揺れる。
「この白銀騎士学校を、もう一度動かす。迷宮から逃げるためだけの場所にはしない。教室は避難所にも講習室にもする。食堂は火を入れ直す。訓練場は草を刈る。働ける場所を増やす。学び直せる席を作る」
誰かが半信半疑の目をした。
それは当然だ。だから、彼は具体的に言う。
「今日の午後、食堂の片づけを始める。倉庫の使える食材を洗い出して、持ち帰りできる食い物を売る。暖を取れる場所も開ける。協力できる人間は、ここで名前を聞く」
「金は」
と、入口の奥から声が飛ぶ。
「ない」
アルシャールは即答した。
「だから、今日作る」
笑う者はいなかった。
代わりに、何人かが顔を見合わせた。できるかどうかではなく、本当にやるつもりかを確かめる目だ。
ジェシーが帳面を閉じ、教壇の横へ並んだ。
「食堂の鍵は開ける。使える鍋もある。数は少ないけど、何もしないよりまし」
その言い方は相変わらず愛想がなかったが、事務官が横に立った意味は大きかった。
昨夜まで最後の一人だった彼女が、今は二人目を認めている。
最初に手を挙げたのは、さっきの元兵士だった。
「扉の蝶番なら直せる」
次に、御者が言う。
「荷運びをやる」
市場の女店主が腕を組む。
「売り方なら口を出すよ」
子どもが黒板の前でまた胸を張った。
「ぼく、文字かける」
「それは助かる」
アルシャールが返すと、教室の空気がわずかに明るくなった。
黒板の「ねるせんせい」は、そのまま残しておくことにした。
消すには、少し惜しい朝だった。




