第3話 着任初夜の魔物
夕暮れのうちに確認した食堂倉庫は、予想以上にひどく、予想ほど悪くはなかった。
粉は湿気ている。干し豆は虫を避けて残っている。塩は固まり、燻製肉は半分が食える。芋は芽が出かけているが、削れば使える。鍋は重いが穴はない。竈は煤だらけだが、煙道は生きていた。
死んでいるものと、生きているものが、同じ棚の上に並んでいた。
アルシャールは袖をまくり、樽を開け、袋を切り、使える分を分けた。
ジェシーは記録用の板を持って横に立ち、廃棄、保留、即使用を迷いなく書き分ける。
途中で彼女が小さなくしゃみをした。埃のせいだろう。けれど作業の手は止まらない。
「時計の保守と事務だけじゃなかったのか」
「人手がいなくなると、肩書は意味を失う」
「重い話を平然と言うな」
「軽くしたら、もっと重く感じる」
そのときだった。
中央塔の上から、硬い金属を打つような音が一つ響いた。
鐘ではない。歯車が噛み損ねたような、不吉な音だった。
ジェシーの顔色が変わる。
「裂け目が開く」
「何だって」
「地下迷宮の浅層が荒れると、町へ出る通路が噛み合うことがある。今日は時計の遅れが大きかった」
「先に言え」
「先に食べ物の仕分けを始めたのはあなた」
言い終わる前に、外から悲鳴が届いた。
人の声が重なり、石畳を走る足音が広がる。遠くで何かが倒れ、馬がいななく。窓硝子が細かく震えた。
アルシャールは食堂を飛び出した。
夕闇の校庭の向こう、町側の坂道で、人影がばらばらに走っている。市場の天幕が傾き、籠が転がり、荷車が道を塞ぎ、その向こうで黒いものが跳ねた。四足とも六足ともつかない影が、屋根の端から石壁へ移る。
魔物だ。
浅層にいるはずの穴潜りが、裂け目から町へ上がってきている。
「避難場所は」
アルシャールが叫ぶ。
「この校舎。教室を開ければ三十人は入る。講堂まで使えばもっと」
「鍵は」
「ある」
「じゃあ開けろ。毛布を出せ。ランプも」
「あなたは」
「時計を見る」
ジェシーが一瞬だけ目を見開いた。
問い返す暇はなかった。
アルシャールは中央塔へ向けて走る。玄関を抜け、狭い螺旋階段を駆け上がる。古い石段は靴裏に硬く、途中で風が強くなり、塔の小窓から夜気が吹きつけた。階下では、ジェシーの怒鳴り声が聞こえる。
「東棟一階を開ける! 走れる人は子どもを先に運んで!」
塔の最上階は薄暗かった。
巨大な歯車が幾重にも組まれ、中央の主軸だけが半拍ずつ遅れている。文字盤の裏には銀の輪があり、古い刻印が月明かりを拾っていた。
アルシャールは息を呑む。
戦場の懐中時計と同じ紋様だった。
階下からまた悲鳴が上がる。
迷う時間はない。
アルシャールは主軸へ手を伸ばした。冷たい金属が掌に触れた瞬間、耳の奥で蓋の閉じるような音が鳴る。
眠気が、もう来ていた。
それでも歯を食いしばる。
「時間よ止まれ」
世界が、息をやめた。
窓の外で跳んでいた魔物が、屋根と屋根のあいだで止まる。
転びかけた少年の足が、石畳の上で浮いた形のまま固まる。
荷車から落ちかけた樽が、斜めの角度で空中に留まる。
火の粉さえ動かない。
静寂だった。
風も、鐘も、人の声もない。
あるのは自分の荒い呼吸だけ。
アルシャールは塔を飛び出した。
止まった町を一人で下る。市場通りの真ん中で引っかかった荷車を押し、車輪の下へ石を噛ませ、空いた隙間を作る。母親の手から離れたままの小さな子を抱え上げ、背中へ回す。門前で尻餅をついた老人を肩に担ぎ、校舎への坂へ運ぶ。
走る。戻る。運ぶ。走る。
教室の扉を蹴り開け、机を寄せ、床へ毛布を投げる。
また町へ出る。
八百屋の軒先で止まった少女を抱え、市場柱の陰に固まった店主を引きずり出し、石柵に挟まれた犬までついでのように拾う。
誰も動かない。だからこそ、一人でやるしかない。
時間停止の中では、町の静けさが異様だった。
泣き顔も、怒鳴り声も、恐怖も、全部が一瞬の形で凍っている。
今、助けなければ、この表情の続きが死になる者もいる。
そう思うたび、足が前へ出た。
最後に残ったのは、坂道の途中の御者だった。
馬が暴れ、荷車ごと横転しかけている。御者の片足が車輪と石壁のあいだに挟まれたまま止まっていた。アルシャールは歯を食いしばり、車体に肩を入れる。重い。だが止まっているぶん、力の向きを作れば動く。板を噛ませ、軸を持ち上げ、足を引き抜く。
その拍子に、胸の奥が冷えた。
もう限界が近い。
校舎へ戻る途中、視界の端が白く霞む。
塔へ戻らなければ時間は再び動かない。だが、自分が戻れなければ終わりだ。
アルシャールは最後の力を振り絞って中央塔へ駆け上がった。
主軸に触れた手が震える。
「……動け」
それが命令だったのか、願いだったのか、自分でも分からない。
次の瞬間、世界が一斉に息を吐いた。
風が戻る。
悲鳴がつながる。
魔物の爪が石を削る。
だが、さっきまで道に散っていたはずの人々は、もう町の真ん中にはいない。校舎の開いた玄関へ向かい、転びかけながらも逃げ込んでいく。市場通りに空いた道を、御者の荷車がぎりぎりのところで抜ける。
塔の下から、ジェシーの声が響いた。
「アルシャール!」
生きている声だった。
それを聞いた途端、張っていた糸が切れた。
彼は階段を下り、教室の並ぶ廊下へたどり着く。
開いた扉の向こうには、息を切らした住民たちが肩を寄せ合い、毛布にくるまった子どもが泣き、ランプの火が震えていた。
その光景を見届けたところで、膝が笑う。
黒板のある教室の前まで来たところで、視界が暗くなった。
まだ立てると思った。
思っただけで、身体はもう言うことを聞かなかった。




