第2話 最後の事務官
白銀騎士学校の正門は、片側だけ蝶番が外れかけていた。
馬車を降りたアルシャールが手をかけると、錆びた鉄が鳴き、草に埋もれた石畳の上へ長い影が滑る。校庭だったはずの場所には背の高い草が風に揺れ、訓練用の木杭は斜めに傾き、窓の割れた校舎には夕日の色だけがきれいに差していた。
終わった場所だ、と一目で分かった。
だからこそ、まだ立っている中央塔が妙に目についた。
玄関扉を押し開けると、乾いた埃の匂いより先に、時計油の匂いが来た。
誰かが手を入れている。
廊下の奥で、金属が軽く触れ合う音がした。
「土足のまま上がらないで」
挨拶より先に、女の声が飛んできた。
声のしたほうを見ると、脚立の上に一人、灰色の制服姿がいた。袖を肘までまくり、工具箱を脇に置き、天井近くの歯車箱を覗き込んでいる。下から見ても、まばたきひとつせずにねじの具合を確かめているのが分かった。
アルシャールは靴裏を見て、玄関マットの端に足を擦りつけた。
「これでいいか」
「少しまし」
女は脚立を下りた。着地した途端、工具を一つずつ布の上へ並べる。その手つきが妙に早く、きっちりしている。
「ジェシー。事務官。時計保守も兼務」
「兼務の幅が広いな」
「残っている人間が少ないから」
それだけ言うと、彼女はアルシャールの肩越しに馬車を見た。
荷物は箱が二つ。護衛なし。従者なし。飾りの紋章もない。
その現実を三秒で読み切ったらしく、彼女は小さくうなずいた。
「なるほど。捨て先としてはちょうどいい」
「初対面の相手にしては遠慮がない」
「遠慮をすると、帳簿の数字が減るならする」
案内された事務室は、窓際の棚が一つ崩れ、壁に雨染みが走っていた。
それでも机の上だけは、異様に整っていた。帳簿が年ごとに積み分けられ、封書は用途別に紐で束ねられ、未払い一覧には赤い線が何本も引かれている。暖炉の灰は古く、火を入れたのがいつなのか見当もつかない。
ジェシーは分厚い帳簿を一冊、机の上に置いた。
「歓迎の言葉より先に、必要な数字を見せる」
ページが開かれる。
「借金。穀物商に銀貨二百四十七枚。薪炭商に百十二枚。屋根修理の未払い六十八枚。鐘楼保守費の滞納三年分」
次の帳簿。
「備品不足。毛布三十七枚不足。ランプ油四樽不足。訓練用木剣は折れたものを含めて十一本。窓硝子は東棟だけで二十四枚割れてる」
さらに紙束が重なる。
「暖房燃料は今あるぶんで八日。節約すれば十二日。無理をすれば十四日。ただし誰かが凍える」
最後に薄い封書。
「近隣貴族からの買収話が三通。差出人は違うけど、文面の癖が同じ。土地だけ欲しい人たち」
そして少し間を置き、ジェシーは一番薄い紙を差し出した。
「住民の不信。これは数字じゃなくて実感。『どうせ長くもたない』『王都から来る人間はすぐ逃げる』『ここはもう終わっている』。だいたいそんな感じ」
言い切ってから、彼女はようやく椅子へ腰を下ろした。
まるで手術の前に器具を並べ終えた外科医みたいな顔だった。
アルシャールは一冊目から順に見直した。
借金の額そのものより、入る金が細い。入学金なし、寄付途絶、迷宮採取の持ち込み減、食堂休止、宿舎閉鎖。流れが全部止まっている。止まっている場所に、止まった掛け時計。趣味の悪い一致だった。
「逃げるなら今日のうち」
ジェシーが言った。
「馬車はまだ門の外にいる」
「追い出す親切か」
「残るつもりなら、先に夢を捨ててもらう必要があるだけ」
アルシャールは帳簿を閉じた。
窓の外では、夕方の鐘が鳴らない町が静かすぎた。鐘がないだけで、暮れ方はこれほど頼りなくなるのかと思う。
「夢はない」
彼は言った。
「あるのは、今日中に赤字を一つ減らす手だけだ」
ジェシーの眉がわずかに動く。
「できるの」
「できなければ、明日の暖房が減る」
「答えになってない」
「答えだよ。俺はたいてい、そういう種類の仕事をしてきた」
アルシャールは立ち上がり、事務室の棚を見回した。
食堂の在庫表。倉庫鍵の札。閉鎖教室の封蝋。古い寄付帳。
使えるものは、まだある。
金そのものがなくても、動かせる品と場所が残っているなら、初日は黒くできる。
「食堂の鍵は」
「ある」
「倉庫の現物確認は」
「今からできる」
「売店の窓口は生きてるか」
「蝶番が一つ死んでるけど開く」
「町で今夜いちばん売れそうなものは」
そこで初めて、ジェシーは少しだけ考えた。
「温かいもの。あと、持ち帰れるもの」
「よし」
アルシャールは上着を脱いで椅子へかけた。
王都の軍法会議では一度も上がらなかった口角が、ほんの少しだけ動く。
「なら、まず今日を黒字にする種を作る」
「たった今、借金総額を見たばかりだけど」
「だからだ。全部を埋める話は明日から考える。今日は一枚の銅貨でも流れを戻す」
「その言い方、兵站の人」
「元がついても、やることは変わらない」
ジェシーは立ち上がった。
机の脇の鍵板から、食堂と倉庫の札を迷わず外す。
「案内する」
「助かる」
「勘違いしないで。校長代行が餓死すると、事務処理が増える」
「優しいな」
「事実を言っただけ」
そう言って先に廊下へ出た背中を追いながら、アルシャールは思った。
この学校で最後まで灯りを消さなかったのは、この女だ。
止まった時計の下で、帳簿と鍵だけを武器に立ち続けていた人間がいる。
なら、まだ終わってはいない。




