第11話 寝るための部屋
迷宮一層の安全地帯を作ってから、校舎の回り方が少し変わった。
朝は教室。昼は食堂。午後は迷宮の回収と補修。夕方は診療所とのやり取り。夜は帳簿と翌日の割り振り。
人が増えたぶん、アルシャールのすることも増えた。彼はそれを悪いことだと思っていなかった。
誰かが働ける場所を作り、誰かが戻る道を整える。そのために自分が先に立つのは、慣れている。
慣れているのと、保つのは別だった。
三日目の午後、北棟の廊下で、アルシャールは壁に手をついた。
視界が白く狭まる。昼に迷宮で使った短い停止の反動が、今になってまとめて来たのだ。誰も見ていないうちにやり過ごそうとしたが、足が一歩ぶんだけ遅れた。
そこへ、書類を抱えたジェシーが曲がり角から現れた。
「何してるの」
「廊下と相談してる」
「くだらないこと言ってないで、座って」
「大丈夫だ」
「大丈夫な人は、壁に額をつけたまま喋らない」
言い返すより早く、彼女は書類束を脇の机へ置いた。
それからアルシャールの袖を掴み、半ば引きずるようにして一番近い空き教室へ連れていく。
開けた扉の向こうには、まだ何もない部屋があると思っていた。
だが中へ入った瞬間、アルシャールは少しだけ目を見開いた。
窓際に簡素な寝台が一つ。
藁を詰め直した寝具の上に毛布二枚。壁際に小机。水差し。薬箱。針の遅れた置き時計。黒板には大きな字で、
仮眠室
と書かれていた。
「……いつのまに」
「今朝」
ジェシーは当然のように答えた。
「空き教室が一つ空いたから。寝る先生用」
「その名前を正式採用するな」
「町では通りがいい」
「最悪だ」
けれど悪態をつく声にも力が入らない。
ジェシーは寝台の端を叩いた。
「横になって」
「まだ仕事が」
「倒れられるほうが迷惑」
その一言は、針みたいにまっすぐだった。
「迷宮の出入り表は私がつける。食堂の仕込みはキンバリーに伝えてある。北棟の補修はズドラフコヴィチ。診療所への薬草の受け渡しはカトリーナ。あなたが今ここで見栄を張っても、仕事は増えるだけ」
アルシャールは寝台を見た。
藁の匂いが新しい。毛布も干したばかりらしく、冷たくない。水差しの横には、塩をひとつまみ入れた豆湯まで置いてある。
用意がよすぎる。
「前から作る気だったな」
「昨日、迷宮から戻ったあと、階段で二歩ぶん寝てた」
「そんな器用なことするか」
「してた」
「見られてたのか」
「見ないと落ちる」
そこまで言われて、ようやく諦めた。
アルシャールは上着を脱ぎ、寝台へ腰を下ろす。藁が小さく鳴っただけで、体が驚くほど沈みたがった。
「少しだけだぞ」
「二刻」
「長い」
「短い」
「交渉になってない」
「校長代行の権限を一時停止する」
ジェシーは毛布を引き上げた。
その手つきが雑に見えて、端だけきちんと肩へかかる。
扉が閉まりかけたところで、アルシャールは呼び止めた。
「ジェシー」
「何」
「……助かる」
彼女は振り返らなかった。
ただ、扉の向こうで少し間があいてから、
「知ってる」
とだけ返った。
次に目を開けたとき、窓の外の光は傾いていた。
思ったより深く眠っていたらしい。身体の芯に刺さっていた鈍い重さが、少しだけ抜けている。
部屋は静かだった。廊下の向こうを走る子どもの足音、遠くで鍋の蓋が鳴る音、石を打つ乾いた響きが、扉越しに小さく届く。
自分が眠っているあいだも校舎は回っていた。
それが妙に胸へしみた。
小机の上には板切れが一枚置いてあった。
《起こす基準》
火事/死人/時計が動く/校舎が半分なくなる
その下に、小さく書き足しがある。
《それ以外はノック二回まで》
アルシャールは思わず笑った。
笑うと、部屋の外で気配がした。キンバリーがそっと扉を開け、顔だけ出す。
「起きた?」
「起きた」
「じゃあ豆湯飲んで。あと食堂で新作売れた」
「何だそれ」
「燻し芋に薬草塩ちょっと混ぜたやつ。カトリーナが『回復した気になる味』って」
「ひどい売り文句だな」
「でも売れた」
キンバリーはけらけら笑う。
「寝る部屋、いいでしょ」
「お前も絡んでたのか」
「毛布運んだの私だし」
廊下へ出ると、ジェシーが向こうから帳面を抱えて歩いてきた。
彼女は起きた顔を一瞥して、黒板の字を指さす。
「使い心地は」
「悪くない」
「なら今後も使う」
「命令か」
「運用」
少しだけ口元が上がる。
アルシャールは仮眠室の扉を振り返った。
空き教室だった場所に、寝てもいいと言われる部屋ができている。
失敗した者が戻る教室と同じくらい、それはこの校舎に必要なものだったのかもしれない。




