第10話 迷宮一層、安全地帯の確保
白銀騎士学校の地下へ下りる石階段は、校舎の北棟の奥にあった。
ふだんは頑丈な扉で閉ざされているが、今は開けるたびに冷たい湿気が上がってくる。土と石と、長く風が通らなかった場所の匂いだった。
その朝、階段前には八人が集まっていた。
アルシャール、キンバリー、元兵士三人、若者二人、そしてズドラフコヴィチ。ジェシーは地上に残る。入口の記録係と、戻り時間の管理役だ。
階段の脇の黒板には、前夜のうちに作戦が書かれていた。
進む距離。戻る合図。灯りの本数。撤退の順番。拾うものの優先順位。
「いいか」
アルシャールは白墨の先で地図を叩いた。
「今日は勝ちに行くんじゃない。安全地帯を作る。薬草棚のある区画まで道を通し、鉱石の取れる脇道を二つだけ押さえる。深追いはしない」
元兵士が槍の石突で床を鳴らす。
「出てきた奴は斬っていいんだな」
「必要ならな。だが今日は、斬るより寄せる」
「寄せる?」
アルシャールは地図の角に描いた印を示した。
「通路の狭いところへ誘導して、罠と目印で動きを縛る。広場で囲まれる形を作るな。戻る道を自分で塞ぐのがいちばん間抜けだ」
ズドラフコヴィチが頷いた。
「石壁の割れ目はこっち側へ走ってる。崩すなら一撃でいける」
「崩すのか?」
若者が青くなる。
「必要ならだ」
アルシャールが答える。
「だが本命は崩すことじゃない。安全に通れる幅を残して、横道だけ潰す」
キンバリーは腰へ短槍を差し、鼻先をわずかに上げた。
「血の匂いより、湿った薬草の匂いが強い。今日は浅い」
「お前の鼻だけは信用してる」
「だけは、って何」
「食堂のつまみ食い歴があるからな」
「まだ言う」
下りた先の迷宮一層は、思っていたより学校に近かった。
石壁は古く加工され、ところどころに灯り台の跡がある。昔は授業用の見学区画として整えられていたのかもしれない。だが今は床に細かな裂け目が走り、浅い水が靴裏を濡らし、遠くで何かが爪を立てる音が響いていた。
アルシャールは先頭ではなく、二列目に立った。
前はズドラフコヴィチと元兵士。後ろに若者。キンバリーは横道の匂いを見る遊撃。真ん中で全体を見渡せる位置を取る。
「十歩ごとに印」
言うと、若者のひとりが白い石灰を壁へ打った。
「曲がり角は二重。撤退時は右手を壁に」
「はい」
返事は硬いが、昨日の教室で地図を見ていたぶん、足は止まらなかった。
最初の遭遇は、広い部屋へ出る手前だった。
岩の影から、穴潜りが二体這い出る。昨夜町へ出たものと同じく、脚の数が見ているうちに分からなくなるいやな動き方をする。
元兵士が前へ出かけたのを、アルシャールが止めた。
「まだ」
彼は石を一つ拾い、通路の左壁へ投げた。
硬い音が反響する。穴潜りがそちらへ顔を向けた瞬間、キンバリーが逆側から走り、槍の石突で床を叩いた。音に釣られて体が横を向く。
その隙に、ズドラフコヴィチが用意していた木枠を足元へ滑らせた。
狭い通路で脚が絡み、二体の動きが一拍止まる。
「今だ」
元兵士たちの槍が短く突き出される。深追いしない。突いて下がり、また突く。穴潜りは通路の狭さで体勢を変えられず、そのまま石床へ転がった。
「正面から殴り合うより楽だろ」
アルシャールが言うと、最前列の男が鼻を鳴らした。
「悔しいがな」
薬草棚のある区画へ着くまでに、三つの横道を潰した。
ズドラフコヴィチが石の継ぎ目を見抜き、若者たちが杭を打ち、元兵士が押さえ、アルシャールが順番を決める。崩しすぎず、細い隙間だけ残す。空気は通すが、人型以上は抜けられない幅。
通路の端へ布紐を張り、戻り道が一目で分かるようにした。
地味な作業ばかりだ。
だが、迷宮ではこういう地味な手が人を生かす。
薬草棚の部屋は、予想より荒れていなかった。
壁際の棚に、淡く青い葉の薬草がまだ群れている。湿り気の強い場所で育つ種類らしい。カトリーナが欲しがっていた熱冷ましの材料だ。
若者たちがほっと息をついた、そのときだった。
天井のどこかで、ぱき、と嫌な音がした。
古い支柱が割れる音だ。
「下がれ!」
アルシャールが叫ぶ。
だが一番奥にいた少年の足が、床の裂け目に引っかかった。頭上の石片が落ちてくる。
距離がある。普通に走っても間に合わない。
アルシャールは迷わなかった。
懐へ入れたままの、あの鎖の切れ端が掌に当たる。
意識を一点へ絞り、壁際の古い灯り台へ手を当てた。
「時間よ止まれ」
一瞬だけ、音が薄くなる。
落ちかけた石片の輪郭が鈍る。
その短い隙にアルシャールは走り、少年の肩を突き飛ばし、支柱の下へ木楔を蹴り込んだ。世界が戻る。
次の瞬間、石片は角度を変えて横へ落ち、床へ激しい音を立てた。
「今の……」
誰かが言いかけたが、アルシャールは答えなかった。
膝の奥が冷える。まぶたの裏に重たいものが落ちてくる。
まだ倒れるわけにはいかない。
「採れるだけ採って戻る」
声だけを強く保つ。
「ここを今日から一つ目の安全地帯にする。次回は灯りを増やす。入り口に木札も立てる」
戻りは行きより早かった。
目印が効いている。紐を辿り、潰した横道を横目に通り、広場では隊列を崩さない。地上の扉が見えたとき、若者のひとりが本気で笑った。
自分の足で迷宮から戻れたことが、思った以上に嬉しかったのだろう。
地上ではジェシーが待っていた。
砂時計の横に板を置き、戻った人数を確認する。全員そろっているのを見ると、彼女はほんの少しだけ顎を引いた。
安心したときの癖らしかった。
「薬草二袋。青鉱石四。割れ石多数。怪我は」
「擦り傷だけ」
ズドラフコヴィチが答える。
「支柱が一本危なかったが、次で補強できる」
「戻れる道になった」
キンバリーが胸を張る。
「匂いも前よりきれい。怖い匂いが減った」
その日の夕方、食堂の壁には新しい札が増えた。
《迷宮一層 安全地帯第一 薬草棚区画》
字を書いたのは、昨日まで読み書きに尻込みしていた若者だった。まだ線はたどたどしい。だが、自分の書いた札が校舎の壁にかかるのを見て、耳まで赤くしていた。
アルシャールはその札を見上げた。
剣で勝ったわけではない。
大声で士気を煽ったわけでもない。
それでも町へ持ち帰れるものと、帰ってこられる道が増えた。
参謀の仕事は、たいていこういう形でしか目立たない。
だが今日は、それで十分だった。




