第1話 寝ていた英雄
王都の軍法会議室は、朝だというのに冷えていた。
高い窓から入る光は白すぎて、長机に並んだ将官たちの顔色まで薄く見せていた。磨かれた床には靴音が短く返り、傍聴席では書記官が羽根筆を走らせている。中央に立たされたアルシャールは、胸の前で両手をそろえたまま、誰の目も追わなかった。
机の上に置かれているのは、一枚の報告書と、泥に汚れた軍帽だった。
報告書には、前線第七防衛線の撤退戦において、兵站参謀アルシャールが持ち場で眠り込んでいたとある。
軍帽には、乾ききらない黒土が爪のあいだへ入り込んだみたいにこびりついていた。
「言い分は以上か」
中央の判官役が、書面から目を上げずに言った。
「以上です」
アルシャールは短く返した。
ざわ、と左右の席が揺れた。
もっと命乞いをすると思っていたのだろう。だが、彼は何も足さなかった。敵軍の進軍が不自然に遅れた理由も、補給部隊の荷馬車が一台残らず退いた理由も、語ろうとしない。
語れないのではなく、語らない。
あの夜、自分が手にしていたもののことを。
雨の匂いがまだ残る泥濘の野で、荷馬車の底から古びた懐中時計が出てきた。
銀の蓋には、誰かの家紋らしいものが擦り切れて残り、針だけが音もなく震えていた。
それに触れた瞬間、矢が空中で止まり、敵兵の脚が一歩目の形のまま静止した。風さえ薄い布のように固まった。
動けたのは、アルシャールだけだった。
彼は息を切らしながら退路の荷車を押し、轍に板を差し込み、倒れた兵を引きずって泥から出した。止まった世界を一人で走り切ったあと、時計の蓋が閉じる音を聞いた途端、全身の力が抜けた。
次に目を開けたときには、夜明けの泥の中だった。
残ったのは、異様に整った撤退線と、眠りこけた参謀の姿だけ。
英雄譚にもならず、武勇談にもならず、臆病者の笑い話になるには十分だった。
「前線で眠り込んだ男に、王都の兵站を任せ続けるわけにはいかん」
別の将官が言った。
「もっとも、除隊まで求めるほどの働きのなさでもない。温情はある」
その温情という言葉に、端の席の誰かが薄く笑った。
判決は早かった。
王都勤務を解き、辺境ルクスグレイの白銀騎士学校へ転任。
役職は校長代行。名目は再建補佐。実態は厄介払い。
判決文を読み終えた書記官が紙を伏せる。
その音で、ようやく終わったのだと分かった。
アルシャールは一礼し、泥のついた軍帽を自分で持ち上げた。咎人を見る目が背中に何本も刺さる。だが振り返らない。
廊下へ出ると、春先の風が石造りの窓から吹き込んできた。
古傷のように細い冷たさだった。
外で待っていた御者が、気まずそうに帽子を上げる。
「ルクスグレイ行きだそうで」
「そうらしい」
「遠いですよ」
「近かったら困る連中が決めたんだろう」
御者は返事に困り、馬車の荷台を叩いた。
アルシャールは荷を載せる前に、懐から小さな鍵を取り出した。昨夜まで肌身離さず持っていた、あの懐中時計の鎖だけがそこにあった。肝心の本体は軍の押収品目録にも、遺留品箱にもなかった。
あれは消えたのか。
それとも、どこか別の時計へ帰ったのか。
王都の石畳を離れ、街道へ入って半日。
平野は次第に痩せ、土の色が薄くなり、荷車の車輪に跳ねる砂が増えた。宿場町を二つ越え、川を一つ渡ったころには、空の青さまで乾いて見えた。
日が傾いたころ、馬車は丘の上で速度を落とす。
御者が鞭を持ったまま、顎で前を示した。
「見えました。あれです」
ルクスグレイの町は、谷のように沈んだ土地に広がっていた。
屋根の数はあるのに、煙が少ない。市場の天幕もまばらで、城壁代わりの石柵はところどころ崩れている。その奥に、町を見下ろすように立つ古い校舎があった。中央塔だけがやけに高く、夕焼けを背負って黒く突き出ている。
そして、その塔の上。
巨大な掛け時計は、六時三分を指したまま止まっていた。
アルシャールは身を乗り出した。
遠目でも分かる。文字盤の意匠。針の細工。外周を守る銀の輪。
戦場で手にした懐中時計と、同じ系統の仕事だった。
馬車がきしみながら丘を下る。
風の中で、止まった時計だけが、なぜか彼を見返してくるようだった。




