雪解けの前に
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春の訪れは、静かだった。
だが、その静けさの中に、確実に戦争の足音が近づいていた。
「陛下、国境の監視報告です」
フランツが、複数の羊皮紙を持ってきた。
「ヴェストマルク側に、兵の集結が確認されました。規模は――およそ五千」
エドヴァルトは地図上に印をつけた。
「五千か。前回のノルトガルドより少ないが、質が違う」
「はい。ヴェストマルクの軍は、傭兵主体。統制が取れており、実戦経験も豊富です」
「厄介だな」
エドヴァルトは、訓練場の方を見た。
「我が軍の現状は?」
「歩兵七百、うち完全武装が五百。弩兵は百五十。騎士は十五騎のまま」
「七百か……」
数の上では、七倍以上の差がある。
「オズヴァルト卿とグスタフ殿を呼んでくれ。それと――」
エドヴァルトは考えた。
「国境の地形を熟知している者を集めろ。猟師、木こり、農民――誰でもいい」
数時間後、城の大広間。
集められたのは、貴族だけでなく、庶民も含めた様々な人々だった。
「陛下、このような者たちを、軍議に?」
アルブレヒトが眉をひそめる。
「構わん」エドヴァルトは答えた。「戦争は、貴族だけのものじゃない」
彼は、集まった人々を見回した。
「諸君。率直に聞く。西の国境――ヴェストマルクとの境界で、軍を止められる場所はあるか?」
老猟師が手を上げた。
「陛下、シルバータールの谷があります」
「シルバータール?」
「はい。幅が狭く、両側は崖。大軍が通るには時間がかかります」
「そこに罠を仕掛けられるか?」
「できます。倒木や落石を――」
「よし」エドヴァルトは地図に印をつけた。「他には?」
次々と、庶民たちから情報が出てきた。
沼地の位置。
隠れた小道。
水源の場所。
貴族たちは、庶民の知識の豊富さに驚いていた。
「では」エドヴァルトは立ち上がった。「作戦を説明する」
彼は、地図上に線を引いた。
「ヴェストマルク軍は、ここから侵攻してくるだろう。我々は――正面から戦わない」
「では、どこで?」
「至る所で」エドヴァルトは答えた。「敵が国境を越えた瞬間から、小規模な襲撃を繰り返す。補給を狙い、眠りを妨げ、道を塞ぐ」
「前回のノルトガルドと同じ戦法ですか?」
「基本は同じだが、相手は学習している。だから――」
エドヴァルトは、新しい図を描いた。
「今回は、弩を使う」
訓練場。
弩兵たちが、整列していた。
「いいか!」オズヴァルトが叫ぶ。「弩の利点は、距離と威力だ! だが欠点は、再装填の遅さ!」
彼は指示を出す。
「三列に分かれろ! 第一列が撃ったら、後ろに下がって装填! その間に第二列が撃つ! 第三列も同じだ!」
兵士たちが、動き始める。
第一列が一斉に射撃。
すぐに後退し、装填を始める。
その間に第二列が前に出て、射撃。
そして第三列。
「よし! これを繰り返せば、連続射撃ができる!」
エドヴァルトは、満足そうに頷いた。
(ローテーション射撃。近世の歩兵戦術の基本だ)
(この世界にはまだ、この概念がない)
その夜、作戦会議。
エドヴァルトは、主要な将校たちを集めた。
「フランツ卿。貴殿には、遊撃隊を率いてもらう」
「遊撃隊?」
「軽装の兵五十。馬も使う。敵の補給線を襲い、休息を妨げる」
「承知しました」
「オズヴァルト卿。貴殿は主力部隊を率いてくれ。槍兵三百、弩兵百」
「どこに布陣を?」
「シルバータールだ。そこで、敵を迎え撃つ」
エドヴァルトは地図を指差した。
「敵がシルバータールに到達する頃には、疲弊しているはずだ。そこで――」
彼は拳を握った。
「初めて、正面から戦う」
「陛下は、どこに?」
「俺は――」エドヴァルトは微笑んだ。「予備隊とともにいる。状況に応じて、動く」
出陣の日。
城門の前に、七百の兵が集まっていた。
かつての寄せ集め農民軍とは、まったく違う。
統制の取れた、訓練された軍だった。
エドヴァルトは、馬上から兵士たちを見渡した。
「諸君!」
声が、静寂を破った。
「我が国は小さい。敵は大きい。だが――」
彼は剣を抜いた。
「我々には、守るべきものがある! 家族がいる! 故郷がある! この土地がある!」
兵士たちの目が、輝き始める。
「敵は、それを奪おうとしている! ならば――」
エドヴァルトは剣を掲げた。
「戦おう! 生き残るために! 守るために!」
「おおおおお!」
七百の声が、一つになった。
エリーザベトは、城の窓から出陣を見送っていた。
「お兄様……」
彼女の目には、涙が浮かんでいた。
「どうか、無事で……」
西の国境。
ヴェストマルク軍五千が、国境を越えた。
先頭を行くのは、傭兵隊長ブルーノ・シュヴァルツ。
四十代の、歴戦の戦士だった。
「隊長、森が深いですね」
副官が言うと、ブルーノは頷いた。
「用心しろ。リヒテンブルクの小僧は、姑息な手を使う」
「前回のノルトガルドのように?」
「ああ。だが、俺たちは学んでいる」
ブルーノは命令を出した。
「先遣隊を出せ! 道の安全を確認しながら進む! 補給部隊は中央に! 警戒を怠るな!」
だが――
「隊長! 前方の木が倒れています!」
「またか。退かせろ!」
工兵たちが倒木を除去し始めた、その時――
ヒュッ!
弩のボルトが飛んできた。
「うわあっ!」
工兵の一人が倒れる。
「敵襲! どこだ!?」
だが、森の中からは誰も現れない。
ただ、次々とボルトが飛んでくるだけ。
「くそっ! 追え!」
兵士たちが森に飛び込むと――
敵はすでに逃げた後だった。
「隊長! こっちでも襲撃が!」
「後方部隊も攻撃を受けました!」
ブルーノは舌打ちした。
(同時多発か。小賢しい)
その夜、ヴェストマルク軍は野営した。
だが、安らぎはなかった。
深夜、突然――
ドンドンドン!
太鼓の音が響く。
「敵襲か!?」
兵士たちが飛び起きるが、攻撃は来ない。
ただ、音だけが響く。
一時間後、ようやく静かになったと思ったら――
また、太鼓が鳴る。
「くそっ! 眠らせる気か!」
三日後。
ヴェストマルク軍は、シルバータールの入口に到達した。
だが、兵士たちの顔には疲労の色が濃い。
「隊長……兵たちの士気が」
「わかっている」
ブルーノは、谷を見上げた。
狭く、長い谷。両側は切り立った崖。
「罠だな」
「では、迂回を?」
「いや」ブルーノは首を振った。「迂回すれば、さらに時間がかかる。食糧も減る」
彼は決断した。
「突破する。だが、慎重に」
谷の中ほど。
オズヴァルトは、三百の槍兵とともに待っていた。
「来るぞ……」
谷の入口から、ヴェストマルク軍の先頭が見えてきた。
「まだだ……もっと引き込め……」
敵が谷の中腹に達した時――
「今だ! 岩を落とせ!」
崖の上から、大量の岩が落とされた。
「うわあああ!」
敵の隊列が混乱する。
「弩兵、撃て!」
百本のボルトが、谷に降り注いだ。
「槍兵、前進!」
オズヴァルトは剣を掲げた。
「押し込め! 谷から出すな!」
戦いは、三時間続いた。
狭い谷という地形が、ヴェストマルクの数的優位を無効化した。
「退却! 一旦退却だ!」
ブルーノは、やむなく撤退を命じた。
谷の外に出ると、損害を確認する。
「隊長……死傷者二百、戦闘不能が百です」
「くそっ……」
三百の損害。
しかも、谷は突破できなかった。
「隊長、どうします?」
ブルーノは考えた。
(このまま攻め続ければ、損害は増える)
(だが、引けば――)
その時、伝令が駆けてきた。
「隊長! 後方の補給部隊が、襲撃を受けました!」
「何!?」
「軽騎兵五十ほどが、夜襲を……食糧の半分が焼かれました!」
ブルーノの顔が、蒼白になった。
リヒテンブルク軍本陣。
フランツが、汗まみれで戻ってきた。
「陛下! 成功しました! 敵の補給部隊を焼きました!」
「よくやった」エドヴァルトは頷いた。「損害は?」
「我が方は三名の負傷のみ。敵は大混乱です」
「オズヴァルト卿からは?」
「谷での戦闘で勝利。敵は退却しました」
エドヴァルトは、深く息を吸った。
(まだだ。まだ油断はできない)
「警戒を続けろ。敵は、まだ五千近い兵力がある」
翌日。
ヴェストマルク軍から、使者が来た。
「リヒテンブルク王に伝言です」
「聞こう」
「我が隊長、ブルーノ・シュヴァルツは言います。『貴殿の戦いぶり、見事だった。だが、これで終わりではない』と」
エドヴァルトは静かに答えた。
「こちらからも伝えてくれ。『次も同じだ。何度来ても、我々は戦う』と」
使者が去った後。
ハインリヒが不安そうに言った。
「陛下……本当に、また来ますか?」
「来るだろう」エドヴァルトは頷いた。「だが、次は――春が終わってからだ」
「なぜ?」
「今の季節、敵は補給が続かない。一度撤退して、態勢を立て直す。そして夏に、もっと大規模な軍で来る」
エドヴァルトは地図を見た。
「我々も、準備を続けよう」
その夜。
エドヴァルトは城の屋上にいた。
遠くで、たき火の明かりが見える。
ヴェストマルク軍が、撤退の準備をしているのだろう。
「陛下」
フランツが現れた。
「勝ちましたね」
「勝った? いや」エドヴァルトは首を振った。「追い返しただけだ。本当の戦いは、これからだ」
「それでも……民は喜んでいます。二度も、大国を退けたと」
「そうか」
エドヴァルトは微笑んだ。
「ならば、良かった」
彼は、星空を見上げた。
(俺は、英雄になりたいわけじゃない)
(ただ――)
(この国を、生き残らせたいだけだ)
遠くで、兵士たちの歓声が聞こえた。
小さな国の、小さな勝利。
だが、確かな一歩だった。
戦いは続く。
だが――
リヒテンブルク王国は、まだ滅んでいない。
そして、これからも滅ばせない。
エドヴァルトは、静かに拳を握った。
次回もお楽しみに




