最後の戦い
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退位から三年後。
エドヴァルト上皇(四十三歳)は、ブライテンハーフェンの別邸で静かな日々を送っていた。
朝は海を眺め、午後は読書をし、夜は妻マリアと語らう。
穏やかな日々。
だが――
体調は、確実に悪化していた。
「ゴホッ……ゴホッ……」
咳が止まらない。
血を吐く日も増えた。
侍医ヴィルヘルムは、もう隠さなかった。
「上皇陛下……おそらく、あと半年です」
エドヴァルトは、静かに頷いた。
「わかった」
「苦痛を和らげる薬を――」
「いらない」
エドヴァルトは首を振った。
「最後まで、はっきりした意識でいたい」
その日の午後。
フリードリヒ一世(十九歳)が、別邸を訪れた。
「父上」
「フリードリヒ。忙しいのに、わざわざ」
「父上の容態を聞きました」
フリードリヒは、涙をこらえていた。
「まだ……まだ、やれることがあるはずです」
「ない」
エドヴァルトは、微笑んだ。
「これは、自然の摂理だ」
「でも……」
「フリードリヒ」
エドヴァルトは、息子の手を取った。
「お前は、立派な王になった」
「この三年間、よくやっている」
「……ありがとうございます」
「だから、俺は安心して逝ける」
エドヴァルトは、窓の外を見た。
海が、穏やかに広がっている。
「この国は、お前に任せた」
「はい……」
その夜。
エドヴァルトは、一人で執務室にいた。
いや、もう執務室ではない。
ただの書斎だ。
彼は、古い書類を整理していた。
シルバータールの戦いの記録。
ヴェストマルク侵攻の報告書。
海戦の航海日誌。
そして――
戦死者名簿。
何冊もの、分厚い名簿。
エドヴァルトは、それを一冊一冊、撫でた。
「みんな……すまなかった」
涙が、溢れた。
「お前たちが、命を懸けて守った国は――」
「今、平和だ」
「繁栄している」
「だから……」
彼は、名簿を胸に抱いた。
「もう少しで、俺も行く」
「そうしたら、謝らせてくれ」
数日後。
エドヴァルトは、ついに床に伏した。
高熱が続き、意識が朦朧とする。
マリアが、ずっと傍にいた。
「あなた……」
「マリア……」
エドヴァルトは、妻の手を握った。
「今まで、ありがとう」
「何を言っているんですか」
マリアは、涙を流した。
「まだ、終わりじゃありません」
「いや……もう、終わりだ」
エドヴァルトは、微笑んだ。
「でも、幸せだった」
「お前と結婚できて、本当に良かった」
「私も……」
マリアは、夫の手を強く握った。
「あなたと過ごせて、幸せでした」
その夜。
エドヴァルトは、夢を見た。
戦場の夢。
シルバータールの谷。
無数の兵士が、戦っている。
だが――
その兵士たちが、エドヴァルトに気づいた。
「陛下!」
「王!」
彼らが、集まってくる。
エドヴァルトは、その顔を見た。
見覚えのある顔。
戦死者名簿に書いた、一人一人の顔。
「お前たちは……」
「はい。俺たちです」
一人の若い兵士が、笑顔で言った。
「陛下、お疲れ様でした」
「よく、頑張りましたね」
別の兵士が、肩を叩いた。
エドヴァルトは、涙を流した。
「すまなかった……お前たちを、死なせてしまった」
「何を言っているんですか」
老兵が、笑った。
「俺たちは、自分で選んだんです」
「陛下のために、国のために、戦うことを」
「後悔なんて、ありません」
「そうですよ」
別の兵士が続けた。
「陛下が作った国――見ましたよ」
「平和で、豊かで、みんなが笑っている」
「俺たちが守りたかった、まさにその国です」
エドヴァルトは、崩れるように泣いた。
「ありがとう……ありがとう……」
兵士たちが、エドヴァルトを囲んだ。
そして――
「さあ、陛下」
一人が、手を差し伸べた。
「一緒に行きましょう」
翌朝。
エドヴァルト上皇は、静かに息を引き取った。
享年四十三歳。
マリアが、夫の手を握ったまま、泣き崩れた。
フリードリヒが駆けつけたときには、すでに――
「父上……!」
彼は、父の遺体に取りすがった。
「父上……まだ、教わりたいことがたくさんあったのに……!」
訃報は、すぐに大陸中に広まった。
リヒテンブルク王国だけでなく――
ハプスブルク帝国。
グラウバルト王国。
ノルトガルド公国。
南方諸都市。
そして、海を越えて――
新アルカディア帝国。
すべての国が、哀悼の意を表した。
「偉大な王が、逝った」
「大陸の平和を築いた英雄が」
「彼がいなければ、我々は今もまだ戦争をしていただろう」
葬儀は、国葬として執り行われた。
リヒテンブルク王国史上、最大規模の葬儀。
各国の王、皇帝、貴族、将軍――
そして、無数の民衆が集まった。
棺は、『インペラトール』に載せられた。
かつて、エドヴァルトが平和のために乗った艦。
その艦が、ゆっくりと港を出た。
沖合で――
水葬が行われた。
エドヴァルトの遺言だった。
「俺を、海に還してくれ」
「海で戦った仲間たちと、一緒にいたい」
棺が、海に沈められた。
そして――
『インペラトール』を含む、全艦隊が――
弔砲を撃った。
ドドドドドォォォォン!
轟音が、海を揺らした。
葬儀の後。
フリードリヒ一世は、王宮の謁見の間で演説した。
集まった民衆に向かって。
「父、エドヴァルトは――」
フリードリヒの声は、震えていた。
「偉大な王でした」
「滅亡寸前の小国を、大陸の強国にした」
「戦争の時代を終わらせ、平和をもたらした」
「そして――」
フリードリヒは、涙を拭った。
「何より、優しい父でした」
「父は、いつも言っていました」
「『王の仕事は、民を幸せにすることだ』と」
「『戦争は、最後の手段だ』と」
「『一人一人の命は、等しく尊い』と」
フリードリヒは、拳を握った。
「私は、父の遺志を継ぎます」
「平和を守り、民を幸せにし、この国を発展させます」
「父が築いた国を、さらに素晴らしいものにします」
「それが――」
彼は、空を見上げた。
「父への、最高の供養だと信じています」
民衆から、拍手が起きた。
そして――
「フリードリヒ王、万歳!」
「リヒテンブルク、万歳!」
歓声が、響いた。
その夜。
フリードリヒは、父の書斎に入った。
今は、誰もいない。
机の上には、父が最後まで読んでいた本。
壁には、地図。
そして――
戦死者名簿。
フリードリヒは、その名簿を開いた。
一人一人の名前。
父が、涙を流しながら書いた名前。
「父上……」
フリードリヒは、名簿を胸に抱いた。
「私も、この重みを背負います」
「一人一人の命の重さを、忘れません」
「だから――」
彼は、窓の外を見た。
星空。
「見ていてください、父上」
「私が、どんな王になるか」
それから数十年。
フリードリヒ一世の治世は、「黄金時代」と呼ばれた。
戦争のない、五十年間。
産業が発展し、教育が普及し、文化が花開いた。
そして――
エドヴァルト上皇の業績は、伝説となった。
教科書に載り、物語となり、歌になった。
「戦争史オタクの王」
「滅亡寸前の小国を、平和な強国にした英雄」
だが――
一番大切なことは、忘れられなかった。
エドヴァルトが、何のために戦ったか。
権力のためではない。
征服のためでもない。
ただ――
民を守るため。
家族を守るため。
平和を勝ち取るため。
現在。
エドヴァルト上皇が亡くなって百年後。
リヒテンブルク王国は、大陸最大の国家になっていた。
だが――
エドヴァルトの墓はない。
海に還ったから。
代わりに、ブライテンハーフェンの港に――
巨大な記念碑が建てられている。
そこには、こう刻まれている。
『エドヴァルト一世
リヒテンブルク王国初代国王
戦士であり、平和の使徒であった
彼は戦争で国を守り、外交で平和を勝ち取った
彼の遺志――平和と繁栄――を、我々は永遠に受け継ぐ』
そして、その下に――
一万七千六十二の名前が、刻まれている。
エドヴァルトとともに戦い、散っていった者たちの名前。
彼らもまた、忘れられることはなかった。
記念碑の前で。
一人の少年が、祖父に尋ねた。
「おじいちゃん、エドヴァルト王って、本当にすごかったの?」
「ああ」
老人は、微笑んだ。
「すごかった。だが――」
「何より、優しかったんだ」
「優しい?」
「そうだ。戦いながらも、決して人の命を軽んじなかった」
「一人一人を大切にした」
「だから――」
老人は、記念碑を見上げた。
「今でも、愛されているんだ」
少年は、記念碑に手を合わせた。
そして――
心の中で、祈った。
(エドヴァルト王、ありがとう)
(僕たちが、平和に暮らせるのは、あなたのおかげです)
海風が、優しく吹いた。
まるで、エドヴァルトが――
微笑んでいるように。
【大完】
【エピローグ】
エドヴァルトの魂は、今も海にいる。
戦友たちとともに。
彼らは、笑っている。
「いい国になったな」
「ああ」
エドヴァルトは、微笑んだ。
「みんなのおかげだ」
「いやいや、陛下のおかげですよ」
「違う」
エドヴァルトは、首を振った。
「俺一人じゃ、何もできなかった」
「お前たち、ハインリヒ、フランツ、オズヴァルト、グスタフ――」
「みんながいたから、できたんだ」
「そして――」
彼は、遠くを見た。
そこには――
マリアが、手を振っていた。
「あなた、こっちですよ!」
エドヴァルトは、駆け出した。
妻の元へ。
「ゴメン、待たせた!」
「もう、遅いですよ!」
二人は、抱き合った。
そして――
ともに、光の中に消えていった。
穏やかな光。
温かい光。
それは――
平和そのものだった
エドヴァルトの物語は、ここで終わります。
彼は、戦いました。
民のために。
家族のために。
平和のために。
そして、勝ちました。
武器で勝ったのではありません。
意志で勝ったのです。
この物語が、少しでも――
平和の尊さを、伝えられたなら。
そして、一人一人の命の重さを、感じていただけたなら。
それが、何よりの喜びです。
ありがとうございました。




