北からの鉄槌
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「総勢八千……」
フランツ・フォン・アドラーは、森の中の監視拠点から、街道を埋め尽くすノルトガルド軍を見下ろしていた。
騎士の一団が先頭を進み、その後ろに歩兵、そして長い補給隊列。
「まるで、蛇のようだ」
傍らにいた斥候兵が呟いた。
フランツは急いで馬を駆り、王都へと向かった。
「八千か」
エドヴァルトは報告を聞いても、表情を変えなかった。
「予想通りだな」
「陛下……我が軍は訓練兵五百と、騎士十五騎のみ。どう戦われるおつもりで?」
宰相ハインリヒの声は震えていた。
「戦わない」
「え?」
「正面から戦えば、負ける。だから、戦わない」エドヴァルトは地図を広げた。「敵は今、シュタールヴァルトの森の入口にいる。明日の昼には、森の中腹に到達するだろう」
彼は、森の中の街道に印をつけた。
「ここで、待ち伏せる。だが――攻撃はしない」
「攻撃しない……では、何を?」
「道を塞ぐ」エドヴァルトは微笑んだ。「そして、待つ」
翌日、正午。
ノルトガルド公国軍総司令官、ヴォルフラム・フォン・ノルトガルドは、苛立ちを隠せずにいた。
「なぜ、止まっている!」
「閣下! 前方の道が、倒木で塞がれております!」
「倒木だと? 退かせろ!」
「それが……数が多く、しかも意図的に絡ませてあるようで」
ヴォルフラムは舌打ちした。
五十歳の歴戦の騎士である彼は、この小国の征服を、単なる演習程度に考えていた。
「工兵を呼べ! すぐに道を開けろ!」
だが、倒木を除去するのは想像以上に時間がかかった。
一本退かせば、別の木が倒れてくる。まるで罠のように、巧妙に組まれていた。
日が傾き始めた頃、ようやく道が開いた。
「進軍! 急げ!」
だが――
「閣下! また前方に倒木が!」
「何だと!?」
同じことが、三度繰り返された。
そして日が暮れた。
「……野営だ」
ヴォルフラムは苦々しく命じた。
森の中での野営は快適ではなかった。道は狭く、八千の軍勢を展開する場所がない。兵士たちは街道沿いに、細長く陣を張るしかなかった。
深夜。
突如、森の奥から奇妙な音が響いた。
「うおおおおおお!」
「敵襲か!?」
ノルトガルド軍の兵士たちが飛び起きる。
だが――
誰も攻めてこない。
ただ、森の中から、叫び声や、太鼓の音、角笛の音が響くだけ。
「何だ、何が起きている!?」
兵士たちは武器を手に取り、警戒態勢を取った。
だが、一時間経っても、攻撃は来なかった。
「……気のせいか?」
兵士たちがようやく横になり始めた頃――
また、音が鳴り響いた。
森の外れ。
フランツ・フォン・アドラーは、五十名の軽装兵とともに、太鼓を叩き、角笛を吹いていた。
「よし、十分だ。次の地点へ移動するぞ」
「フランツ様、これで本当に効果があるので?」
「ある」フランツは笑った。「陛下が言っていた。『人間は、眠れなければ、判断力が鈍る』と」
彼らは音を立て続けた。
三十分ごとに、場所を変え、音を鳴らす。
攻撃はしない。ただ、音を立てるだけ。
三日目の朝。
ヴォルフラムの顔には、明らかな疲労の色が浮かんでいた。
「閣下、兵たちの士気が低下しております」
副官のカール・フォン・ブルンネンが報告する。
「三日間、まともに眠れず……食糧も、予定より消費が早く」
「わかっている!」
ヴォルフラムは怒鳴った。
(くそ……何だこれは)
道を進もうとすれば、倒木で塞がれる。
夜になれば、奇妙な音で眠りを妨げられる。
だが、敵の姿は一度も見ていない。
「閣下! 後方の補給部隊が襲撃を受けました!」
「何!?」
「五十名ほどの軽装兵が、補給馬車を焼き払って逃走したとのこと!」
ヴォルフラムは拳で樹を叩いた。
「くそっ……卑怯な真似を!」
だが、彼は知らなかった。
これは、戦争の新しい形だということを。
五日目。
ようやくノルトガルド軍は、森を抜けた。
だが、そこで待っていたのは――
「要塞……?」
森の出口には、急造の木柵と土塁が築かれていた。
そして、その向こうに――
「槍……?」
整然と並ぶ、五百の槍兵。
エドヴァルトは、土塁の上に立っていた。
「ようこそ、ノルトガルド公国軍殿」
彼の声は、静かだが、確かに届いた。
「我がリヒテンブルク王国へ」
ヴォルフラムは、馬を進めた。
「リヒテンブルクの小僧王か! 貴様、我が軍を愚弄したな!」
「愚弄? いいえ」エドヴァルトは首を振った。「ただ、お迎えしただけです。歓迎の意を込めて」
「ふざけるな!」
ヴォルフラムは剣を抜いた。
「全軍! 突撃せよ! あんな木の柵、騎士の突撃で容易く――」
「お待ちください」
エドヴァルトの声が、ヴォルフラムの言葉を遮った。
「貴軍の兵士たちを見てください。五日間、森の中で眠れず、食糧も減り――今、突撃できる状態ですか?」
ヴォルフラムは、自軍を振り返った。
兵士たちの顔は疲弊し、士気は明らかに低下していた。
「それに」エドヴァルトは続けた。「貴軍の補給線は、森の中を通っている。我が軽装兵が、常に監視しています。今、突撃すれば――」
彼は指を鳴らした。
すると、森の中から、煙が立ち上り始めた。
「何!?」
「補給部隊を、焼いています」エドヴァルトは冷静に告げた。「貴軍の食糧は、あと何日分ありますか?」
ヴォルフラムの顔が、蒼白になった。
陣営に戻ったヴォルフラムは、頭を抱えた。
「閣下……補給部隊の半数が、焼かれました」
カールの報告は、容赦なかった。
「残りの食糧は、三日分。このままでは……」
「わかっている!」
ヴォルフラムは考えた。
(突撃すれば、勝てる。あんな槍兵など、騎士の突撃で蹴散らせる)
(だが……その後は?)
食糧がなければ、占領地を維持できない。
そして、森を戻るには、また時間がかかる。
(あの小僧……初めから、こうするつもりだったのか)
翌朝。
ノルトガルド軍の陣営から、使者が来た。
「リヒテンブルク王に、我が総司令官ヴォルフラム閣下からの伝言です」
エドヴァルトは、使者を迎えた。
「聞こう」
「閣下は言われます。『今回の侵攻は、演習であった。貴国との戦争を望むものではない。よって、撤退する』と」
エドヴァルトは、微笑んだ。
「そうですか。それは何よりです」
「ただし――」使者は続けた。「閣下は、いずれ再び来ると。次は、このような小細工は通用せぬと」
「お待ちしております」
エドヴァルトは、丁寧に頭を下げた。
「いつでも、お越しください」
ノルトガルド軍が撤退した夜。
リヒテンブルク王都では、祝宴が開かれた。
「勝った! 我々は勝ったのだ!」
貴族たちが歓声を上げる。
だが、エドヴァルトは浮かれていなかった。
「オズヴァルト卿、フランツ卿」
二人の騎士を呼び、静かな部屋で話した。
「我々は、勝っていない」
「陛下?」
「敵を追い払っただけだ。それも、運が良かったからに過ぎない」
エドヴァルトは地図を見た。
「ノルトガルドは、次は本気で来る。そして西のヴェストマルクも、我が国の弱点を探っている」
「では……」
「時間を稼いだだけだ。だが、この時間を無駄にはしない」
エドヴァルトは立ち上がった。
「軍を増強する。訓練を続ける。そして――」
彼は、石炭の採掘場の方角を見た。
「鉄の生産を、さらに増やす」
数週間後。
エドヴァルトは、グスタフの工房を訪れた。
「陛下、お待ちしておりました」
グスタフは、布で覆われた何かを指差した。
「ついに、完成いたしました」
布を取ると――
整然と並ぶ、五百セットの槍、盾、そして胸当て。
「これで……」グスタフの声には、誇りがあった。「五百の兵を、完全武装させられます」
エドヴァルトは、槍を手に取った。
まっすぐで、バランスが良い。先端は鋭く研がれている。
「見事だ、グスタフ殿」
「石炭のおかげです、陛下」グスタフは頭を下げた。「あの黒き石が、これほどの力を持つとは……」
エドヴァルトは微笑んだ。
(第一段階、クリア)
(次は――)
彼の頭の中で、次の計画が動き始めていた。
その頃。
西のヴェストマルク伯領。
伯爵ゲルハルト・フォン・ヴェストマルクは、密偵からの報告を聞いていた。
「リヒテンブルクが、ノルトガルドを撃退した、と?」
「はい。正確には、撤退させたと言うべきかと」
「ほう……」
ゲルハルトは、五十代半ばの狡猾な貴族だった。
「興味深い。あの小僧王、何かを持っているのか?」
「詳細は不明ですが……奇妙な戦術を使ったとのことです」
「奇妙な?」
「はい。そして――」密偵は声を潜めた。「黒き石を使って、鉄を大量に作っているとの噂も」
「黒き石……?」
ゲルハルトの目が、鋭く光った。
「もっと調べろ。あの小国に、何か秘密がある」
エドヴァルトは、その夜、城の屋上に立っていた。
星空を見上げながら、呟く。
「次は、ヴェストマルクか……」
(ノルトガルドは武力派。だが、ヴェストマルクは違う)
(あいつらは、策略家だ)
彼は、前世で読んだ歴史書を思い出していた。
(中世の戦争は、力だけじゃない。政治、経済、情報――全てが絡み合う)
(そして――)
彼は、遠くの森を見た。
(石炭と鉄。これが俺のカードだ)
(だが、このカードは諸刃の剣でもある)
エドヴァルトは深く息を吸った。
戦いは、まだ始まったばかりだった。
次回もお楽しみに




