王の覚悟
引き継ぎお楽しみください
午後二時四十分。
五千の敵兵が、第三防衛線に殺到した。
溝を板で渡り、杭を乗り越え、槍衾に突進する。
「うおおおおお!」
咆哮。
金属と金属がぶつかる音。
肉を断つ音。
悲鳴。
怒号。
地獄が、目の前にあった。
エドヴァルトは、槍兵たちの最前列で戦っていた。
王としてではなく、一人の兵士として。
剣を振るい、敵の槍を払い、盾で攻撃を受け止める。
「陛下、危険です! 下がってください!」
ベルンハルトが叫ぶが、エドヴァルトは首を振った。
「ここで戦う! みんなと共に!」
その姿を見た槍兵たちは、奮起した。
王が、自分たちと同じ場所で戦っている。
王が、危険を共にしている。
ならば――
「陛下を守れ!」
「王を死なせるな!」
槍兵たちは、エドヴァルトの周りに密集し、必死に敵を防いだ。
槍を突き出し、盾で受け、また槍を突き出す。
その繰り返し。
だが、敵の数は圧倒的だった。
五千対千五百。
いや、負傷者を除けば、五千対千。
じわじわと、槍兵の陣形が押し込まれていく。
「くっ……!」
エドヴァルトは、剣で敵の槍を弾いた。
だが、その瞬間――
別の敵の剣が、横から襲ってきた。
「陛下!」
若い槍兵が、エドヴァルトの前に飛び出した。
ザシュッ!
剣が、槍兵の腹を貫いた。
「がっ……」
槍兵が、血を吐いて倒れる。
「君!」
エドヴァルトは、倒れた兵士に駆け寄ろうとした。
だが、その隙を狙って、また敵が襲ってくる。
「陛下、気をつけて!」
別の槍兵が、敵を槍で突いた。
戦場は混沌としていた。
もはや、整然とした陣形ではない。
入り乱れた乱戦。
誰が味方で、誰が敵か。
ただ、目の前の相手を倒す。
そうしなければ、自分が死ぬ。
午後三時。
戦闘開始から四時間半。
リヒテンブルク軍は、限界に達していた。
弾薬は尽き、槍は折れ、兵士たちは疲弊しきっていた。
第三防衛線の一部が、ついに突破された。
「右翼が崩れました!」
「左翼も持ちません!」
次々と、悪い報告が入る。
フランツは、エドヴァルトのもとに駆けつけた。
「陛下! もはやこれまでです! 撤退を!」
「撤退? どこへ?」
エドヴァルトは、血まみれの顔で答えた。
「ここが最後だ。ここを失えば、もう守るものはない」
「しかし――」
「撤退は許さん」
エドヴァルトは、剣を構え直した。
「ここで、決める」
その時――
遠くで、ラッパの音が聞こえた。
エドヴァルトは、動きを止めた。
(この音は……?)
ラッパの音は、戦場の喧騒の中でも、はっきりと聞こえた。
そして――
地鳴りのような音。
「何だ……?」
敵も味方も、一瞬だけ動きを止めた。
谷の入口。
そこに、新しい軍勢が現れた。
旗が見えた。
青と金の、見覚えのある紋章。
「グラウバルト……!」
エドヴァルトは、信じられない思いで見つめた。
グラウバルト王国の軍旗。
そして、その下に――
三千の騎兵と歩兵。
先頭には、見覚えのある騎士が馬上にいた。
ハンス・フォン・グリュンヴァルト――グラウバルト王国の武官。
「リヒテンブルク王国に、援軍!」
ハンスの声が、谷に響いた。
「グラウバルト王国軍、三千! カール四世陛下の命により、参上!」
「おおおおお!」
リヒテンブルク兵たちから、歓声が上がった。
援軍だ。
援軍が来た。
もう、一人じゃない。
エドヴァルトは、涙が溢れそうになった。
だが、それを堪えた。
「全軍! 援軍が来た! もう少しだ! 持ちこたえろ!」
グラウバルト軍は、即座に戦闘に加わった。
三千の新鮮な兵力が、ヴェストマルク連合軍の後方を襲った。
「な、何!?」
ゲルハルトは、後ろを振り返って絶句した。
「グラウバルト軍だと!? なぜ、こんなに早く!?」
マティアスが、蒼白な顔で答えた。
「条約では、一ヶ月以内に援軍を――」
「一ヶ月以内だ! まだ二週間しか経っていない!」
だが、現実はそこにあった。
グラウバルト軍は、条約を守り――いや、それ以上に迅速に動いたのだ。
ハンスは、グラウバルト騎兵を率いて突撃した。
「突撃!」
千騎の騎兵が、ヴェストマルク連合軍の側面に突っ込んだ。
ドドドドド!
蹄の音。
そして――
ガシャン! ガシャン! ガシャン!
騎兵の槍が、敵陣を蹂躙する。
「ぎゃああ!」
ヴェストマルク軍は、完全に挟撃された。
前からはリヒテンブルク軍。
後ろからはグラウバルト軍。
逃げ場がない。
「ひ、退却! 退却だ!」
兵士たちが、我先にと逃げ始めた。
「待て! 逃げるな! 陣形を保て!」
ブルーノが叫ぶが、もう誰も聞いていない。
士気は完全に崩壊した。
午後四時。
戦場に、静寂が戻った。
ヴェストマルク連合軍は、完全に敗走した。
谷から逃げ出し、西へと撤退していく。
追撃するリヒテンブルク・グラウバルト連合軍。
だが、エドヴァルトは追撃を制限した。
「深追いはするな。敵が完全に撤退したことを確認したら、戻れ」
疲弊しきった軍に、それ以上の戦闘は無理だった。
エドヴァルトは、剣を地面に突き刺し、その場に座り込んだ。
全身が、鉛のように重い。
鎧は血で汚れ、体中に打撲と切り傷がある。
「陛下……」
フランツが近づいてきた。
「勝ちました。我々は、勝ちました」
「ああ……」
エドヴァルトは、空を見上げた。
青い空。
雲が流れている。
(勝った……本当に、勝ったのか……)
実感が湧かなかった。
その時、ハンスが馬から降りて近づいてきた。
「エドヴァルト王。援軍が遅れ、申し訳ございませんでした」
「遅れた? いや――」
エドヴァルトは、立ち上がった。
「完璧なタイミングだった。もう少し遅れていたら、我々は全滅していた」
「カール四世陛下の命令でした。『条約を守れ。いや、それ以上に速く動け』と」
「カール陛下に、感謝を伝えてくれ」
エドヴァルトは、深く頭を下げた。
「貴国がいなければ、今日、リヒテンブルク王国は滅んでいた」
午後五時。
戦場の後片付けが始まった。
負傷者の手当て。
戦死者の収容。
武器の回収。
エドヴァルトは、戦場を歩いた。
倒れている兵士たち。
リヒテンブルクの兵士も、敵の兵士も。
誰もが、同じ人間だった。
家族がいて、夢があって、生きたかった人間。
「陛下……」
負傷した若い兵士が、エドヴァルトに手を伸ばした。
エドヴァルトは、その手を握った。
「大丈夫だ。医者を呼ぶ」
「あ、ありがとうございます……陛下……」
兵士は、安心したように目を閉じた。
エドヴァルトは、軍医を呼び、次の負傷者のもとへ向かった。
一人一人、声をかけ、手を握り、励ました。
王として。
いや、一人の人間として。
夕刻、午後六時。
損害報告が、まとめられた。
オズヴァルトが、エドヴァルトに報告する。
「陛下……我が軍の損害です」
リヒテンブルク軍:
戦死:三百五十二名
重傷:四百八十名
軽傷:六百二十名
総損害:千四百五十二名
出撃時の兵力三千に対し、約半数が死傷した。
エドヴァルトは、報告書を見て、唇を噛んだ。
「三百五十二名……」
一人一人に、名前がある。
家族がいる。
そして――
もう、帰ってこない。
「敵の損害は?」
「推定で――」
オズヴァルトは、深呼吸した。
「戦死、約四千。負傷、約二千。ヴェストマルク連合軍八千のうち、六千が死傷しました」
圧倒的な勝利だった。
数字の上では。
だが――
エドヴァルトは、喜べなかった。
「四千……」
四千の人間が、死んだ。
この谷で。
今日、一日で。
「陛下、これは輝かしい勝利です」
オズヴァルトが言った。
「四倍の敵を撃退しました。しかも、我が軍の損害は相対的に少ない」
「そうだな……」
エドヴァルトは、窓の外を見た。
谷は、夕日に染まっていた。
そして、その地面は――
赤く、赤く染まっていた。
その夜、エドヴァルトのテント。
彼は一人で、ランプの明かりの下で座っていた。
手には、羽根ペン。
目の前には、白紙の羊皮紙。
彼は、ゆっくりと書き始めた。
『戦死者名簿』
そして、一人一人の名前を書いていく。
報告書から、名前を写す。
アントン・シュミット、二十三歳、農民、銃兵。
ベルント・ミュラー、十九歳、鍛冶屋の息子、砲兵。
クリストフ・ヴェーバー、三十一歳、既婚、槍兵。
一人、また一人。
三百五十二の名前。
時間は、深夜まで続いた。
手が疲れても、止めなかった。
彼らの名前を、記録しなければならない。
彼らが生きていたことを、忘れてはならない。
深夜二時。
ようやく、最後の名前を書き終えた。
エドヴァルトは、羽根ペンを置いた。
そして――
堰を切ったように、涙が溢れた。
声を殺して、泣いた。
王として、人前では泣けない。
でも、ここでは――
一人では――
泣いてもいい。
(すまない……)
(みんな、すまない……)
(俺が、この戦争を始めた)
(俺が、みんなを戦場に送った)
(だから――)
彼は、拳で地面を叩いた。
(だから、俺は――)
(絶対に、この国を守る)
(みんなの犠牲を、無駄にはしない)
涙を拭い、立ち上がった。
テントの外に出ると、星空が広がっていた。
静かな夜。
遠くで、篝火が揺れている。
見張りの兵士が、立っている。
(まだ、終わっていない)
エドヴァルトは、北の方角を見た。
(ノルトガルドが、まだいる)
(この勝利の知らせを聞いたら、彼らはどう動く?)
だが、今夜は――
考えるのをやめた。
今夜は、戦死者を悼む夜だ。
エドヴァルトは、静かに祈った。
神を信じているわけではない。
でも――
祈らずにはいられなかった。
(どうか、彼らの魂が安らかでありますように)
(そして――)
(生き残った者たちを、守らせてください)
風が、優しく吹いた。
まるで、答えるように。
翌朝。
エドヴァルトは、全軍の前で演説した。
疲れ切った兵士たち。
包帯を巻いた兵士たち。
松葉杖をついた兵士たち。
それでも、全員が集まった。
「諸君」
エドヴァルトの声は、静かだった。
「昨日、我々は勝った。四倍の敵を撃退した」
兵士たちは、黙って聞いていた。
「だが――」
エドヴァルトは、深く息を吸った。
「その代償は、大きかった。三百五十二名の仲間が、帰ってこなかった」
沈黙。
「彼らは、英雄だ。この国を守るために、命を捧げた英雄だ」
エドヴァルトは、兵士たちを見渡した。
「そして、生き残った諸君も、英雄だ」
「諸君は、恐怖に打ち勝った。絶望に屈しなかった。最後まで、戦い抜いた」
「だから――」
エドヴァルトは、深く頭を下げた。
「ありがとう。諸君のおかげで、この国はまだ存在している」
兵士たちの目から、涙が溢れた。
「陛下……」
「陛下、万歳!」
一人の兵士が叫んだ。
「エドヴァルト王、万歳!」
「リヒテンブルク、万歳!」
「万歳! 万歳! 万歳!」
歓声が、谷に響いた。
勝利の歓声ではない。
生き残った者たちの、魂の叫びだった。
エドヴァルトは、その声を聞きながら――
静かに、決意を新たにした。
(これで、終わりじゃない)
(これは、始まりだ)
(本当の戦いは、これからだ)
太陽が、東の空に昇っていた。
新しい一日が、始まった。
次回もお楽しみに




