シルバータールの準備
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「土嚢を積め! もっと高く!」
「杭を打ち込め! 深く、深く!」
「射撃台の高さを揃えろ!」
シルバータールの谷に、無数の声が響き渡っていた。
午後二時。リヒテンブルク軍三千は、夜明けまでに陣地を完成させなければならなかった。時間は、十八時間しかない。
エドヴァルトは、谷の入口に立ち、全体を見渡していた。彼の頭の中には、完成形のイメージが明確にあった。前世で見た無数の要塞や陣地の図面、戦史の記述――それらすべてを総動員して、この限られた時間で作れる最良の防御陣地を設計していた。
「オズヴァルト卿!」
「はい、陛下!」
老騎士が、泥だらけの顔で駆けつけた。彼もまた、指揮だけでなく自ら土嚢を運んでいた。
「第一防衛線の進捗は?」
「砲兵陣地の整地は完了しました。今、射撃台を建設中です」
「よし。砲は谷の入口から三百メートルの位置。左右に十門ずつ、扇形に配置する」
エドヴァルトは、地面に棒で図を描いた。
「こうすれば、谷に入ってくる敵を、クロスファイアで攻撃できる」
「クロスファイア……?」
「交差射撃だ。左右から挟み撃ちにする」
オズヴァルトは、感心したように頷いた。
「なるほど。敵は、どちらを向いても砲弾が飛んでくる」
「そうだ。ただし――」
エドヴァルトは、砲兵陣地の背後を指差した。
「砲の後方に、退路を確保しろ。もし敵が突破してきたら、砲兵は速やかに撤退する」
「砲を捨てるのですか?」
「人命の方が大切だ。砲は後で奪還すればいい」
砲兵陣地では、二百名の砲兵が汗を流していた。
彼らはまず、地面を平らにした。大砲は水平に設置しなければ、正確に狙えない。
「もっと掘れ! 石は全部取り除け!」
砲兵隊長のフリードリヒが叫ぶ。
彼は四十代の元傭兵で、グスタフとともに大砲の開発に携わってきた。
「土嚢を積むぞ! 三段、いや四段だ!」
土嚢は、砲を敵の射撃から守る盾になる。
兵士たちは、麻袋に土を詰め、それを積み上げていく。
一つの土嚢は約二十キロ。それを何百個も積む。
「重い……くそ、重い……」
若い砲兵が、歯を食いしばって土嚢を運ぶ。
「弱音を吐くな! お前の家族は、この土嚢の向こうにいるんだぞ!」
フリードリヒの言葉に、兵士は黙って作業を続けた。
やがて、砲兵陣地の形が見えてきた。
馬蹄形の土塁。
その内側に、大砲が二十門、扇形に配置される。
それぞれの大砲の前には、砲弾と火薬の山。
そして、大砲の間には――
「杭を打て! 鋭く削った杭を、斜めに地面に刺すんだ!」
敵の歩兵が陣地に突入するのを防ぐ、原始的だが有効な障害物。
さらに、その前には――
「撒菱を撒け! 密に、密に!」
グスタフが作った数千個の撒菱が、陣地の前面にばらまかれた。
第二防衛線。
谷の中腹、砲兵陣地から二百メートル後方。
ここには、銃兵六百が陣地を作っていた。
「射撃台を作る! 高さは一メートル!」
カール隊長が指示を出す。
射撃台は、土を盛って作られた。銃兵はその上に立ち、高い位置から射撃する。
「なぜ、高くするんですか?」
若いマルティンが尋ねた。
「前列の銃兵が、後列の視界を遮らないようにだ」
カールが説明する。
「平地だと、前列が撃った後、後列が前に出るのに時間がかかる。だが、段差があれば――」
「後列は、前列の頭越しに撃てる!」
ヨハンが理解した。
「その通り。これで、より多くの銃を同時に撃てる」
銃兵たちは、土を運び、踏み固め、段々畑のような陣地を作っていく。
第一段――最前列、二百名。
第二段――中列、二百名。
第三段――後列、二百名。
それぞれの段には、木製の柵が設置される。
柵には、銃を置くための切り込みがある。
「これに銃を乗せて、狙いを定めるんだ」
カールが実演して見せた。
銃を柵の切り込みに置くと、銃身が安定する。
「こうすれば、命中率が上がる」
マルティンとヨハンは、何度も練習した。
銃を置き、構え、狙いを定める動作を――何十回も繰り返した。
第三防衛線。
谷の最奥部、銃兵陣地からさらに二百メートル後方。
ここには、槍兵千五百が陣地を作っていた。
「溝を掘れ! 幅二メートル、深さ一メートル!」
槍兵隊長の一人、ベルンハルトが命じる。
彼は三十代の騎士で、かつてはノルトガルド公国に仕えていたが、エドヴァルトの理念に共感してリヒテンブルクに移った。
槍兵たちは、谷を横断する形で溝を掘った。
これは、敵の騎兵突撃を止めるためだ。
馬は、深い溝を跳び越えられない。
溝の向こう側には、鋭く削った杭が斜めに並べられた。
そして、溝の手前には――
「槍衾の陣形を確認する!」
千五百の槍兵が、密集陣形を組んだ。
前列が膝をつき、槍を斜め前方に構える。
中列が立ち、槍を前列の頭上から突き出す。
後列が槍を高く掲げ、中列の頭上から突き出す。
三重の槍の壁。
まるで、巨大な針鼠のように。
「よし! この陣形を、体に覚え込ませろ!」
ベルンハルトは、何度も陣形の組み替えを練習させた。
通常陣形から槍衾へ。
槍衾から方陣へ。
方陣から通常陣形へ。
スムーズに、迅速に。
槍兵たちは、汗だくになりながら練習を繰り返した。
夕刻、午後六時。
太陽が西に傾き始めた。
エドヴァルトは、谷の奥の高台に登り、全体を見渡した。
陣地は、徐々に形になっていた。
第一防衛線の砲兵陣地――ほぼ完成。土塁と土嚢の壁が、夕日に長い影を落としている。
第二防衛線の銃兵陣地――射撃台は完成。今、柵を設置中。
第三防衛線の槍兵陣地――溝は完成。杭も設置完了。
「フランツ卿」
「はい、陛下」
「側面の警戒は?」
「谷の両側の崖に、弩兵を配置しました。片側百五十ずつ、計三百です」
「よし」
エドヴァルトは頷いた。
谷の両側は急な崖だが、完全に登れないわけではない。
もし敵が崖を登って側面を突いてきたら――
弩兵が上から射撃する。
「夜間の警備体制は?」
「四時間交代で見張りを立てます。篝火は――」
「谷の入口に集中させろ。敵に、我々の陣地の詳細を見せるな」
「承知しました」
午後八時、日没。
作業は続いていた。
松明の明かりの下で、兵士たちは黙々と働いた。
エドヴァルトは、各陣地を回り、兵士たちを激励した。
「よくやっている。もう少しだ」
「陛下……!」
疲れ切った兵士たちの顔に、笑みが浮かんだ。
王が、自分たちを見ている。
王が、自分たちを信じている。
それだけで、疲れが吹き飛ぶようだった。
午後十時。
簡易な夕食が配られた。
固いパン、塩漬け肉、そして温かいスープ。
兵士たちは、陣地の中で座り込んで食べた。
マルティンは、スープを啜りながら呟いた。
「明日か……」
「ああ」
ヨハンも、複雑な表情だった。
「怖いか?」
「怖い。お前は?」
「俺も怖い」
二人は、しばらく黙って食事を続けた。
その時、後ろから声がかかった。
「お前たち、初陣か?」
振り返ると、三十代くらいの銃兵がいた。
顔に傷があり、どこか歴戦の雰囲気がある。
「は、はい……」
「心配するな。最初はみんな怖い」
男は、自分のスープを啜った。
「俺も昔、別の国で傭兵をやっててな。初めての戦いの前、小便漏らしそうになった」
マルティンとヨハンは、少し笑った。
「でも、実際に戦いが始まると――意外と、やれるもんだ」
「本当ですか?」
「本当だ。ただし――」
男は、真剣な顔になった。
「隊長の命令を聞け。絶対に、勝手な行動をするな。それさえ守れば、生き残れる」
「はい……」
「それと、仲間を信じろ。お前たちは一人じゃない。六百人の銃兵が、一緒に戦う」
男は立ち上がった。
「じゃあな。明日、生きて会おう」
深夜、午前二時。
エドヴァルトは、まだ眠っていなかった。
彼のテントには、フランツ、オズヴァルト、そして各隊長が集まっていた。
地図を囲んで、最終確認。
「明日の戦闘開始は、おそらく午前中」
エドヴァルトは、地図上に印をつけた。
「敵は、谷の入口に到着後、すぐに攻撃してくる可能性が高い」
「偵察はしないのですか?」
「するだろう。だが、ゲルハルト伯は焦っている」
エドヴァルトは、敵の心理を分析した。
「彼は、速攻で我々を倒したい。ノルトガルドが動く前に、既成事実を作りたい」
「ならば、偵察もそこそこに突撃してくる、と」
「そう考えている」
エドヴァルトは、戦闘の流れを説明し始めた。
「第一段階――敵が谷に入る。距離、五百メートル」
「砲兵、射撃開始。目標は、敵の密集している部分」
「第二段階――敵が三百メートルまで接近」
「砲兵、連続射撃。敵の前進を遅らせる」
「第三段階――敵が二百メートルまで接近」
「砲兵は退却。銃兵、第一斉射」
「第四段階――敵が百五十メートルまで接近」
「銃兵、連続斉射。三列ローテーション射撃」
「第五段階――敵が五十メートルまで接近」
「銃兵は退却。槍兵、槍衾を形成」
「第六段階――敵が突撃」
「槍兵、密集陣形で防御。絶対に、陣形を崩すな」
オズヴァルトが尋ねた。
「もし、槍兵の陣形が破られたら?」
「その時は――」
エドヴァルトは、地図の脇に置いてあった別の図を示した。
「予備隊三百が、即座に増援。そして、騎兵百が敵の側面を突く」
「なるほど……」
「ただし」
エドヴァルトは、全員を見渡した。
「これは、理想的な展開だ。実際には、予想外のことが起きる」
「その時は?」
「臨機応変に対応する。だが――」
エドヴァルトは、強調した。
「一つだけ、絶対に守ってほしいことがある」
「何でしょう?」
「パニックを起こさせるな」
エドヴァルトは、真剣な目で言った。
「恐怖は伝染する。一人が逃げれば、十人が逃げる。十人が逃げれば、百人が逃げる」
「だから、隊長たちは――どんなに恐ろしい状況でも、冷静でいてくれ。兵士たちは、隊長を見ている」
全員が、重々しく頷いた。
「では――」
エドヴァルトは、立ち上がった。
「各自、四時間だけ眠れ。夜明けには、全員起きていろ」
午前四時。
エドヴァルトは、ようやく横になった。
だが、眠れなかった。
頭の中で、何度も何度も、戦闘のシミュレーションが回る。
(もし、砲が故障したら?)
(もし、銃兵がパニックを起こしたら?)
(もし、敵が予想外の戦術を使ったら?)
不安が、次々と湧いてくる。
彼は、目を閉じて深呼吸した。
(落ち着け)
(準備はした)
(できることは、全部やった)
(後は――兵士たちを信じるしかない)
そして――
(エリーザベト……)
妹の顔が浮かんだ。
(必ず、生きて帰る)
(約束したから)
彼は、その思いを胸に――
ようやく、浅い眠りについた。
午前六時、夜明け。
ラッパの音が、谷に響いた。
兵士たちが、一斉に起き上がる。
霧が、まだ谷を覆っていた。
だが、東の空は徐々に明るくなっていた。
エドヴァルトは、鎧を身につけ、テントから出た。
「全軍、配置につけ!」
三千の兵が、それぞれの陣地に向かう。
砲兵は、大砲の最終点検。
銃兵は、火薬と弾丸の確認。
槍兵は、槍の穂先を研ぐ。
エドヴァルトは、馬に乗り、谷の入口に向かった。
そこから、敵が来る。
霧の向こうから――
やがて、遠くで音が聞こえてきた。
太鼓の音。
行軍の音。
そして――
無数の足音。
「来る……!」
見張りが叫んだ。
「敵軍、接近中!」
エドヴァルトは、剣を抜いた。
「全軍、戦闘準備!」
霧が、徐々に晴れ始めた。
そして――
その向こうに、見えてきた。
無数の旗。
無数の槍。
無数の兵士。
ヴェストマルク連合軍、七千六百。
決戦の時が、来た。
次回もお楽しみに




