5 違和感
「まぁ、なんてこと! ミハエル様、大丈夫ですの?」
二人が振り向くと、そこにはブリジッドが茫然と立ち尽くしていた。取り巻きの令嬢たちがマージョリーを野蛮だと騒ぐ中、優雅に駆け寄って手を差し伸べる。それはまるで、舞台のヒロインのようだ。そして、くるりと向きを変え、マージョリーに鋭い視線を送った。
「また貴方ですのね。学校内での暴力はおよしになって。ミハエル様は、ヒルシュベルガー侯爵家のご令息ですのよ? ご存知ないの?」
「ブリジッド嬢、大丈夫だ。マージ―は幼馴染なんだ」
「あら、そうですの? 夜会でお見掛けしたことがなかったので、存じませんでしたわ。それにしても、随分とガサツな方ですわね」
「あっ、マージ―!」
あまりにも優雅な所作のブリジッドに、マージョリーは居たたまれず、その場を逃げ出してしまった。ミハエルは侯爵令息だから、夜会に参加していることは最初から分かっていたことだった。だけど、マージョリーは、デビュタントの折に上級貴族令嬢たちのひどいいじめに遭って以来、夜会に参加することは避けていたのだ。
「はぁ、自分が嫌になる。これじゃあ、ゴールデンゴリラって言われても反発出来ないな。ブリジッドさんの言う通りだ。明日、学校に行ったらミシャに謝ろう」
夜空を見上げながら、マージョリーはベランダのふちに寄りかかるようにしてため息をついた。すると、ノックが聞こえて侍女が入ってきた。
「お嬢様、夜は冷えますので、そろそろお部屋にお戻りください。カモミールの紅茶をお持ちしました。体が温まりますよ」
「アンナ、いつもありがとう」
アンナは、紅茶を注ぎながら、ふと笑みを見せる。
「なにか、あったのですね。ミハエル様、ですか?」
「はぁ、アンナには隠せないのね。ちょっと自信を失くしてたの。侯爵家のご令嬢に行動がガサツだって指摘されちゃって…」
アンナは黙ってその続きを待った。
「彼女、ミハエルの事は良く知っているみたいだった。夜会で会ってるみたいで」
「ミハエル様のこと、大切に思われているのですね」
「え?…それはもちろん。大切な幼馴染だもの」
真顔で言い返すマージョリーを見て、アンナは眉を下げた。
「そうですか。私の目から見ても、今のお嬢様なら、夜会で傷つくことはないと思いますよ。あのデビュタントから、随分と所作を磨かれていますもの。そうだわ! ミハエル様にエスコートしていただいたらよろしいのでは?」
「え? ミシャに?」
途端に抱きしめられた腕の強さを思い出し、頭に血が上る。そんな主を優しい目で見守るアンナは、「今夜は遅いですし、ゆっくりおやすみください」と静かに退室した。
翌朝、学校に向かう途中に、ミハエルがやってくることはなかった。いつもならそんなに気にならないことも、昨日のことを思い出すと、なんとも落ち着かない。それでも、マージョリーはなんでもないように振舞って登校した。今日はいつになく女子生徒からの差し入れやプレゼントも控えめだ。それに、ちらちらと学校内を探すが、ミハエルの姿は見つけられない。
すると、掲示板の前に人だかりができていた。何があったんだろうと思いつつ教室に入ると、生徒たちが一斉にこちらを見た。咎めるようなその視線に、次の一歩を躊躇ってしまう。
「マージ―、大変よ! ヒルシュベルガーさんが教師に暴力をふるったことで、1週間の謹慎になったそうなの」
「貴方にもトイレ掃除が言い渡されているわ。一体なにがあったの?」
「ええ? どういうこと?」
駆け寄ってきたサラが、心配そうに言う。戸惑っていると、前の席に座る男子生徒、デニス・ハイツマンが恐る恐る声をかけて来た。
「あ、あの。ウェリントン嬢。校長先生がすぐ来るようにって…」
「校長室に? 分かりました。どうもありがとう」
そう、校長先生ならちゃんと分かってくれるはずだ。そう思ったマージョリーはすぐに教室を出ようとした。そこに、デニスがあわてて付け加えた。
「あの! ウェリントン嬢、この前はごめん。君は何も悪くないのに、僕は止めることもできなくて」
「ふふ、マージ―って呼んでくださって結構よ。クラスメートですもの。それに、先日は、貴方が悪いわけじゃないわ。気を遣ってくださって、ありがとう」
それだけ言うと、すぐに校長室へと向かった。
「ねえ、サラ。プリシラを見なかった?」
「それが…、彼女、婚約者にマージ―に近づくなって言われたらしいの。どうも、大人の間で変な噂が流れてるみたいで」
「それって、あの掲示板の張り紙と関係があるのかしら。マージ―に限って、理由もなくそんなことをするとは思えないんだけど」
サラの周りでも、不安が広がっていた。
一方校長室に行ったマージョリーは、あまりに会話がかみ合わず、戸惑っていた。開口一番、なぜ一生徒が教諭に色目を使ったのだと責められ、思い通りにならないベイカーを逆恨みしたと断定されていたのだ。ミハエルは、、もともとなにかとベイカーと張り合っていて、どうにも勝てそうにないので、暴力をふるったとされていたのだ。
「マージョリー嬢。グレッグについては、君の協力の元騒ぎにならず感謝していたんだが、今回だけは見過ごせない。教諭を惑わせるとは困ったことだ」
「先生、私はそんなこと…」
「言い訳は聞かない。今から学校中のトイレ掃除を言い渡す。魔法の使用は禁止だ」
有無を言わせない口調で言い放たれ、戸惑いながらもマージョリーは覚悟を決めた。これには絶対なにか裏があるはずだと。素直にバケツに水を汲んで、ブラシを持ってトイレに向かった。授業が始まって静かなトイレに、ブラシの音が響く。
「魅了魔法を解くのは簡単だけど、その首謀者が分からなくなってしまうわ。昨日の不思議堂、あの時…」
マージェリーはじっくり思い出そうとして、ミハエルとケンカしてブリジッドに窘められたことを思い出す。
「はぁ、情けない…。いえ、今はそんなこと言ってられませんわ。あの時、ベイカー先生を懲らしめてその後…。」
そこで、ベイカーを学校側に連れて行かなかったことを思い出した。確かに多くの魔力を吸い取ったが、決して復活できないほどの事はしていない。もしかして、これはベイカーの報復か。その時、トイレに駆け込んで来る者がいた。
「わっ! き、君! 男子トイレで何をやってるんだ!」
「あら、ごめんなさい。学校中のトイレ掃除を言い渡されたので、やっているところですわ。ご迷惑をおかけしてごめんなさい。外に出ていますわ」
申し訳なさそうにトイレを出る後ろ姿を見ながら中に入っていった男子生徒は、その人物が今話題のスペシャリスト科のマージョリーだと気付いて、慌てて出て来た。
「君、本当にちゃんと掃除をしていたんだな。僕はてっきり、スペシャリスト科ならズルをしてさっさと魔法で終わらせるんだと思っていたよ。傲慢で迷惑な存在だなんて、まったくのでっちあげじゃないか」
目を丸くして驚く男子生徒に礼を言うと、マージョリーは再びトイレ掃除を始めた。学校の校舎は本館と北校舎、南校舎、そして、鍛錬場が三館。それぞれにトイレがあるので、手作業となると1日で終わるかどうかというところだ。しかし、昼休憩をはさんだあたりから、学校内の雰囲気が変わってきた。マージョリーが次のトイレに移動すると、すでに他の生徒が掃除をしていたのだ。しかも魔法を使わずにだ。
「あの、皆さんはどうしてここの掃除を?」
「エメラルドの姫様! 私達、マージョリー様が人の道に外れたことをするとは思えなくて、勝手にやらせてもらっているのです」
「エメラルドの姫様にこんなことをさせるなんて、耐えられませんもの」
「皆さん…。ありがとうございます。私もご一緒させてくださいね」
マージョリーは、次々とトイレ掃除をこなしていった。すると、事務職員が慌てて駆け寄って来て、そこにいる生徒たちに、今すぐトイレ掃除をやめてくれと懇願した。
「みなさん、おねがいです。すぐにトイレ掃除をやめてください。も、もうすぐ保護者の皆さんがお見えなんです!」
事務職員は、生徒たちのぞうきんやブラシを慌てて奪い取り、バケツに突っ込んで走り去った。呆れつつ教室に戻ってみると、今朝の視線がウソのようにいつも通りの雰囲気に戻っていた。それに、男子生徒の間で、ミハエルの事件は、武勇伝へと変わっていたのだ。ミハエルのファンだった女子生徒は、不当な謹慎を解けとストライキをはじめ、子どもがトイレ掃除をさせられたと訴える保護者たちと合流して、授業どころではなくなってしまった。
騒動は、校長が出向いて謝罪することでなんとか治まった。教室に戻って、帰っていく保護者たちの様子を見送ると、ふいに視線を感じて振り返った。そこには、表情を和らげたブリジッドの姿があった。ブリジッドは、マージョリーが振り返ったのに気づくと、慌ててぷいっと視線を外した。
「もしかして…」
「そうですわ。ブリジッド様がみんなの誤解を解いてくださったんです」
気づくと、隣に来ていたサラが嬉しそうに答えた。マージョリーは急いでブリジッドに駆け寄って礼を言うが、ツンデレの令嬢は素直にはなれない。
「私は何もしていませんわ。サラさんとお話して、貴方の事をほんの少しだけ誤解していたのではと思ったまでです。みなさん、授業が始まりますわ。早く席にお着きなさい」
ブリジッドの号令で、彼女の取り巻き令嬢はそれぞれ席に着いたが、その表情はマージョリーにも優しかった。
つづく
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