第8話 レオンの過去
カフェの朝は、いつもと変わらぬ静けさの中にあった。
クラリスはホウキの代わりに魔法陣を展開し、床の塵を風で払い、棚に浮かせたカップを並べていく。
指先を軽く振れば、昨日使った鍋が音もなく洗われ、乾燥された布が空中をくるくると舞っていた。
窓の外、深緑の森。
鳥の声に混じって、小さな黒猫の足音が聞こえる。
「おはよう、セド。……今日は、落ち着いてるわね」
《にゃふふ。君が落ち着いてると、森全体が穏やかになるにゃ》
クラリスは微笑む。その銀髪が朝の光にきらめいた。
「……昨日のこと、考えてたの。
私が“聖獣”だったという前世。いまはまだ、はっきりとは思い出せないけれど……」
《君は君にゃ。前世も確かに大事だけど、“今”をどう生きるかが、一番にゃ》
セドはくるりと尾を巻いて、カウンターに飛び乗った。
《君がここにいる意味、それはきっと少しずつ分かっていくにゃ。癒しの力だけじゃない。“選ばれた理由”があるはずにゃ》
クラリスはゆっくりと頷いた。
「そうね……私も、ここに来てから初めて“心から息ができる”って思えた。
だから、今はそれを大切にするわ」
◇ ◇ ◇
夜。カフェの灯りは暖炉の橙に変わっていた。
レオンはブランケットを肩に羽織り、無言で薪をくべる。
クラリスはその隣に座り、ティーカップを差し出した。
「暖まるわよ。ラベンダーとカモミールのブレンド」
「……ありがとう」
ふたりの間に流れるのは、沈黙でも気まずさでもない、柔らかい空気だった。
「なあ、クラリス」
レオンの低い声が、ゆっくりと空間を満たす。
「俺、そろそろ……ちゃんと話すべきかと思った」
クラリスは、驚いた様子も見せず、ただ頷いた。
「ええ。あなたの口から聞きたいと思ってたわ」
レオンは一瞬、視線を彼女に向けた。
その瞳に、驚きではなく——理解の光が宿っていることに、気づく。
「……知ってたのか」
「なんとなく。でも、あなたが話すまで、私からは聞かないと決めてたの」
レオンは軽く笑った。けれどそれは自嘲に近かった。
「……俺は、レオン・ヴァルゼン。ヴァルゼン王国の第二王子だ」
暖炉の火が、静かに揺れる。
「兄——第一王子パウルは、もともと王太子になるはずだった。
でも王太子の任命が何度も見送られて、そのたびに焦りと苛立ちが増していった」
クラリスは、そっとティーカップに手を添えた。
「そんな中で、俺が父王に意見を求められる機会が増えて……
それを、兄は“王太子の座を奪われる”と誤解した」
「……」
「ある日、森へ狩りに誘われた。何も疑わなかった。
でもそこで、護衛の騎士たちが……俺に、剣を向けたんだ」
レオンの拳が、わずかに震える。
「逃げた。必死で、息も絶え絶えで……死ぬと思った。
だけど気づいたら、ここにいた。君のカフェの前で、倒れていたんだ」
クラリスは、言葉を挟まず静かに聞いていた。
「今も、父が本当に何を考えていたのか分からない。
でも、あの日以来……俺はすべてを失った。
家族も、名前も、居場所も」
クラリスはそっと、自分の手を彼の手に重ねた。
「……でも、命は失わなかった。ここで、また歩き出せるなら、それでいいじゃない」
レオンはその言葉に、しばらく黙っていた。
けれどやがて、深く息を吐き出し、ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。
「……君って、本当に不思議なやつだな」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
ふたりの間に流れた静けさは、もう痛みではなく——やさしい安心だった。
その夜、森は深く静かだった。
そしてその静寂の中で、ふたつの孤独がそっと寄り添い始めていた。