第7話 悪夢
夜の森は静かだった。
小さなカフェには灯りが落ち、黒猫の柔らかな寝息だけが響いていた。
クラリスも、自室のベッドで眠りについていた。
けれど——その眠りは、穏やかなものではなかった。
◇ ◇ ◇
(……やめて……)
夢の中。クラリスは、あの冷たい石造りの館の廊下を歩いていた。
「また勝手に本なんか読んでるの? 婚約者の前で恥をかかないようにしなさいよ」
「ほんとにもう、完璧ぶってて気持ち悪いのよね、クラリスお姉さまって」
義妹・ルミエールが笑っていた。
その隣では義母が、冷たい目で見下ろしている。
「クラリス。あなた、笑顔がひとつもできていないのよ。お客様が不快になるじゃない。
王太子妃になるのが夢だと言っておいて、その態度はなに?」
声は淡々としていた。
だが、そこに一片の情や優しさはなかった。
クラリスは、黙ってうつむく。
反論すれば、何倍にもなって返ってくることを、もう知っていた。
——日々、努力を重ねていた。
王太子に相応しい令嬢であろうと、礼儀、作法、魔法、経済、外交……学べることはすべて学び、誰よりも勤勉に過ごしていた。
でも、それが——“鬱陶しい”と、言われた。
「また勉強? それで誰かが褒めてくれると思ってるの?」
「使用人に媚びてるだけでしょ。誰も見てないわよ、そんな努力」
誰も、見てくれなかった。
食事は一日一度。
厨房にこっそり置かれる、冷えきった硬いパンと、具のないスープ。
(お腹……すいた……でも、顔を出せばまた、嫌味を言われる……)
やがて、誰も彼女に食事を運ばなくなった。
だから、クラリスは——自分で魔法を使って、食材を生み出す方法を覚えた。
生きるために。たったそれだけの理由で。
(私が……何をしたっていうの……)
——義母がクラリスの背中を何度も打ちながら笑っている。
「お母さま、私にもやらせて〜」
「じゃあ2人で一緒にやりましょう。このゴミクズが苦しむように。」
「やめて……っ……やめてよ……っ」
寝言のような悲鳴が、静寂を破った。
◇ ◇ ◇
クラリスの部屋の隣。
レオン・ヴァルゼンは、物音に目を覚ました。
(……クラリス?)
彼女の部屋の扉の前に立ち、そっと開けると、月明かりの中、ベッドで震えるクラリスの姿が見えた。
「……お願い……やめて……私、ちゃんと……やってるのに……」
額には汗、まぶたの端には涙。
その姿に、レオンの胸がざわついた。
(……あいつ……こんな顔、誰にも見せたくなかっただろうに)
躊躇いながらも、レオンはそっと彼女の肩に触れた。
「……クラリス。夢だ。目を覚ませ」
その声に、クラリスははっとして目を開けた。
「レオン……さん……?」
彼女はすぐに体を起こし、腕で顔を覆った。
「……見ないで」
「……大丈夫だ。誰にも言わない」
クラリスはしばらく肩を震わせた後、ぽつりと呟いた。
「昔の夢を……見ていただけ。思い出したくもないのに」
「……苦しかったんだな」
「……うん」
クラリスは顔を伏せたまま、小さく笑った。
「誰にも頼れなかったから……魔法で、なんでもできるようになったの。
自分で食べて、自分で耐えるように」
「……すごいな、君は」
「そう言わないで。見せたくなかったのに……こんな顔」
レオンは返す言葉が見つからなかった。
だが、静かに傍に座り、こうだけ言った。
「……もう寝ろ。ここでは、安心していい」
クラリスは目を閉じ、こくんと頷いた。
その銀の髪が、月の光にそっと揺れた。
——静かな夜の中、クラリスの涙が、一粒だけ、枕に落ちた。
それは、ずっと一人で背負ってきた過去が、少しだけ軽くなった夜だった。