第59話 最後の誘惑
王宮の南棟。
静かな書斎に、第一王子のパウルはひとり座していた。
淡い陽光が差し込む窓辺に立ち、葡萄酒のグラスを揺らす。
緋色の液体が、まるで血のようにきらめく。
「――まったく、可愛らしいものだ。正義の味方を気取って、民の味方を演じて」
彼の口元に浮かぶのは、柔らかくも冷たい微笑。
「だがクラリス。君がどれほど理想を語ろうと、現実は変わらない。
この国は“王”と“貴族”のもの。民はただ、それを支える道具に過ぎない」
扉が静かに叩かれた。
応じると、黒衣の使用人が無言で頭を下げ、客を案内する。
現れたのは、クラリス。
「お呼びとのことでしたので、参りました。
このような時間にお会いするとは、何のご用件でしょう?」
クラリスは冷ややかな眼差しを向ける。
対するパウルは、あくまでも微笑を崩さず、手を差し伸べた。
「君に、最後の“好意”を示そうと思ってね。
クラリス。君は聖獣であり、才ある女性だ。
だが――レオンと共に歩むには、あまりに政治的に危険すぎる」
「……どういう意味ですか?」
パウルはゆっくりとクラリスに歩み寄る。
「君は、私と結婚すべきだ。
そうすればこの国の未来を共に築ける。聖獣である君の存在は、政治的にも価値がある。
そして、君にはそれに見合うだけの知性も力もある。
だが――それでもなお、レオンと共に歩むというのなら……彼がどうなるかは、私の関知するところではない」
「……脅し、ですか?」
「警告と言ってほしい。私の“本心”は、君を守りたい。君の力を、この国のために活かしたい――ただそれだけだ」
クラリスはわずかに息を吐き、目を細めた。
「私が誰と共に歩むかは、私が決めます。
あなたが私を“利用したい”と願っていることは、もう知れ渡っています。
あなたに従えば、この国の未来は貴族だけのものになってしまう」
「君がその気になれば、王太子の座も、王の玉座も――私と共にすべて手に入る。
それでも、なおレオンを選ぶというのなら……
せいぜい、彼の命と引き換えに誠実さを貫くといい」
その言葉に、クラリスの頬がわずかにこわばった。
だが、すぐに澄んだ声で言い返す。
「あなたの支配は、終わりを迎えます。
民は、愚かではありません。
そして私は――もう、あなたのような人間に惑わされたりはしません」
パウルの目に、わずかに苛立ちが宿る。
「……ならば、見せてみるがいい。君の“理想”が、どこまで現実に抗えるかを」
クラリスは一礼し、背筋を伸ばして部屋を後にした。
扉が閉まる音とともに、パウルの微笑みが消えた。
「……愚かだな。理想だけでは、国は動かない」
その影は、静かに次の手を準備していた。




