第6話 猫と魔法と、はじめての笑顔
朝の森には、どこか神聖な静けさがあった。
レオン・ヴァルゼンが目を覚ましたのは、柔らかな毛布の中。
木造の天井、外から差し込む優しい光、そして——
遠くから漂ってくるパンの香ばしい匂いと、穏やかなハーブの香り。
(……まだ、夢の中のようだ)
体の痛みは随分と引いていた。
だが、あの夜の出来事は鮮明に覚えている。
森の中で倒れた自分を、助けたのは銀髪の女と黒猫。
そして今、自分はその“癒しの空間”の中にいる。
ドアを開けると、ダイニングに入ったレオンを柔らかな空気が迎えた。
テーブルには、整えられた朝食——
クロワッサン、きのこのポタージュ、アボカドのサラダ、フレッシュなマンゴー、赤い果実のジャム、そして湯気を立てるハーブティー。
不思議だったのは、“誰も作っている気配がなかった”こと。
調理の音はない。
使用人もいない。
だがすべては、まるで今仕上がったばかりのような熱と香りを纏っていた。
そして、その中心に立つ女が一人。
銀の髪が、朝陽に照らされて、まるで霧のカーテンのように輝いている。
「おはよう。少し顔色がよくなったわね」
「……お前が、一人で?」
「ええ。全部、魔法よ」
クラリスは、手元に何も持っていないのに、空中でふわりと動くティーポットに指先で軽く触れた。
「食材は《食材創出》。保存は《鮮度保持》。調理には《加熱調整》《攪拌制御》《風圧剥離》……まあ、一通りの家事魔法は全部揃ってるわ」
「……完璧だな」
「効率がいいって言って。完璧なんて、そんな」
クラリスは微笑みながら、ふわりと魔法で浮かせた皿をレオンの前に運んだ。
パンはちょうどいい焼き加減。ジャムは色とりどりの果実の香りが立ちのぼる。
「食べて。……たぶん、口に合うと思う」
レオンは一口、スープをすくって口に含む。
——やさしい。
濃すぎず、薄すぎず。
だが、身体にすっと馴染むようなまろやかな温かさ。
「……うまい」
その言葉に、クラリスは少しだけ目を見開き、すぐに柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。嬉しいわ。
魔法って、使う人の想いが味になるの。だから、“あなたに元気になってほしい”って願いながら作ったのよ」
レオンは一瞬、言葉を失った。
想いを、味に変える魔法。
そんなものがあるのか。
だが、それが嘘だとは——とても思えなかった。
◇ ◇ ◇
「……おまえ、本当に元・公爵令嬢なのか?」
食後、窓際で猫とくつろぐクラリスを見て、レオンはぽつりと問いかけた。
「ええ、たしかに“昔は”そうだったわ」
「こんな森の奥で、魔法で料理をして、猫に囲まれて暮らしてるなんて……不思議だ」
クラリスは窓の外を見つめながら、ふと寂しそうに目を細めた。
「ねえ、レオンさん。
あなた、名前以外のこと……何も聞かないのね」
「お互い様だろう。……君も、俺のことを何も聞かない」
その言葉に、クラリスは小さく微笑んだ。
(そう……私はあなたが“隣国の王子”だと知ってる。
でも、あなたがそれを言わない限り、私はそれに触れない。
それが、私の礼儀だから)
「知ってるの。人って、自分の話をしたくなるときが来るもの。
でも、その時までは……無理に聞かない方がいいと思ってるの」
「……変わってるな」
「よく言われるわ」
セドがクラリスの膝に丸まり、満足げに喉を鳴らす。
《クラリスにゃん、やさしいにゃ。でも本当は、寂しいにゃ》
その声にクラリスは笑い、そっと猫の背を撫でた。
その光景を見つめるレオンの心に、ふと、温かいものが灯る。
それは、戦場にも、王宮にもなかった——
ただの“朝”という時間に宿る、かけがえのない癒しだった。
◇ ◇ ◇
「……なあ、クラリス」
「なに?」
「ここ、本当に居心地がいい。……なんでだろうな」
「たぶん、あなたが“戦わなくていい”場所だから。
肩の力を抜いて、ただ人としていても許される場所。
そういうのって、案外どこにもないものよ」
レオンは何も言わずにうつむいた。
——その通りだったから。
そして、気がつけば口元が、ほんの僅かに緩んでいた。
「……今、笑った?」
クラリスがからかうように問いかける。
「笑ってない」
「ふふ、うそ」
レオンの耳が赤く染まり、彼はそっぽを向いた。
クラリスと猫たちは、その背中に微笑みを向けながら、静かな朝を迎えていた。
——それは、“心の氷”が溶け始めた最初の朝だった。