第56話 揺れる声
「お出かけですか? クラリス様」
「ええ。今日は王都にできた“癒しの家”のひとつを見に行こうと思っているの。
直接、皆の声を聞きたいのよ」
クラリスは微笑みながら身支度を整えた。
銀の髪を軽く結い上げ、落ち着いた青灰色のドレスを身にまとう。
聖獣としてではなく、一人の女として、人々と向き合いたい。
その想いが、彼女を行動へと駆り立てていた。
セドはクラリスの肩に乗りながら、くんっと鼻を動かした。
「……気をつけて。空気が少し、おかしい」
「わかってるわ。けれど、引いてばかりじゃ何も見えてこないもの」
王都の北部にある癒しの家。
かつて小さな修道院だった建物を改装し、猫たちと過ごせる空間に仕立ててある。
中庭にはハーブが植えられ、室内にはふかふかのクッションと陽だまり。
そこに集う人々は、疲れた顔の中にも、どこか安心したような微笑みを浮かべていた。
「聖獣様……本当に、お姿を見せてくださるなんて……」
「いつも助けていただいてます」
ひとり、またひとりと、クラリスの元へ言葉をかけに来る。
猫を撫でながら、肩の力が抜けていく様子に、クラリスもほっとした。
だが、そんな穏やかな空気の中に――
ひとつ、異質な声が紛れ込んでいた。
「……それで? この猫たちが加護をくれるって言うの?
結局は、猫好きのための集まりでしょう?」
若い男が、皮肉げに笑う。
周囲の人々が一瞬、息を呑む。
「癒されてる気がするのは、気のせいじゃないの?
宗教って、そうやって人の心を縛るもんだし」
「あなた……その言い方は失礼じゃない?」
他の利用者がたしなめようとするが、男は気にせず言葉を続けた。
「結局、あなたたちが何をしても、この国の貧困がなくなるわけじゃない。
クラリス様って言われてるけど、昔の国で婚約破棄された令嬢だったんでしょう?
そのうっぷんを晴らすために王政に関わってるって話、聞いたことありますよ」
……その瞬間、空気が凍った。
「……あなたは、何を知っていて、その言葉を口にしたの?」
クラリスの声は静かだった。
けれど、その眼差しには、決して引かない強さがあった。
「私は――過去に捨てられた。
でも、それで復讐しようなんて思って王宮に来たわけじゃない。
私が望んでいるのは、ただ……皆が笑って暮らせる国を作ること」
男は黙った。
だがその背後に、誰かの“指示”の影が見える気がした。
クラリスは目を伏せて、そっとセドに目をやる。
黒猫は静かに、彼女の肩から見つめ返していた。
――これは、ただの訪問じゃなかった。
クラリスという存在を貶めようとする、仕掛けられた罠だった。
「……でも、私、やっぱりここに来てよかった」
「クラリス……?」
「どんな風に言われても、直接人の声を聞くことが、私には必要なの。
この目で、耳で、心で感じて、また歩いていきたい。
たとえそれが、痛みを伴うとしても」
猫たちが静かに集まり、クラリスの足元でごろりと寝転ぶ。
その柔らかなぬくもりが、彼女の決意を支えてくれているようだった。




