第4話 傷ついた王子と、黒猫のぬくもり
「風が少し重たいわね。……誰か、近くにいる」
クラリスはカップを両手に包みながら、ふっと森の方角に目を向けた。
カフェの軒先には、テーブルと椅子。
今日のために用意したばかりの花瓶には、摘みたての白い草花。
その向かいの椅子では、黒猫セドが堂々と尻尾を巻いてくつろいでいる。
《にゃ〜、今日来るにゃね。確かに空気が違うにゃ。草の葉がそわそわしてるにゃ》
「魔力の流れが少し不安定。……疲れた人が森に迷ってきたのかもしれないわ」
《ボクの毛先が“そろそろ来るぞ”って言ってるにゃ》
クラリスはくすりと笑った。
「なら、お迎えの準備は万端ね」
朝から用意したスープは暖炉の上で温まり、パンはほどよく焼き上がっている。
ティーカップも磨かれ、カフェは既に「誰かを迎える場所」として整っていた。
クラリスは、心地よさそうに椅子の背にもたれた。
「久しぶりに、誰かと話すのも悪くないかもしれないわね」
《そうにゃ。どうせ来るなら、面白いヤツがいいにゃ》
そんなことを話していると、森の奥からかすかに気配が動いた。
——ザッ……ザシュッ……。
規則性のない足音。枝を踏む音。
そしてそれに混じる、乱れた魔力の揺らぎ。
クラリスの目が真剣になる。
「来たわね……でも、ただの旅人じゃない。あれは——」
影の中から現れたのは、ひとりの男。
マントは破れ、肩は血で染まっている。
けれど、その姿にクラリスは一瞬で気づいた。
「……レオン・ヴァルゼン。第二王子……!」
彼の名と顔は、クラリスにとって忘れ得ぬものだった。
かつて王太子妃候補として仕えていた時、何度も書類上で目にした、“宮廷の影にいる王子”。
しかしその存在が、今この森で、傷ついた姿で現れるとは。
(何が……起きたの……?)
彼の足元がふらつき、次の瞬間——崩れるように地面へ倒れた。
クラリスは反射的に猫の姿に変わり、風のように彼のもとへ駆け寄った。
◇ ◇ ◇
倒れたレオンの胸元に、黒猫のクラリス——“ルナ”がぴたりと身体を寄せる。
その柔らかなぬくもりに、男の身体がわずかに反応した。
「……猫……?」
彼の目は虚ろだったが、その声には確かな“安心”が宿っていた。
「こわくないにゃ。だいじょうぶにゃ……」
魔力が広がる。
ルナの癒しの力が、静かに彼の心と体を包んでいく。
《にゃー……ひどく傷ついてるにゃ。心の中、寒い氷みたいにゃ》
《でもまだ、生きたいって思ってる。光に触れたいって……》
クラリスは、ゆっくりと彼に魔力を送り込む。
ぬくもりのようなそれが、彼の魔力の波乱を鎮めていく。
「……不思議な、あたたかさだな……」
かすれる声が微かにこぼれ、次の瞬間、彼はそのまま意識を手放した。
ルナは人の姿に戻り、レオンを静かに抱きとめた。
その手はとても穏やかで、彼の顔にかかる髪をそっと払う。
「ようこそ、わたしのカフェへ。……レオン殿下」
彼の名を呼ぶ声は、懐かしさと慈しみに満ちていた。
「ここなら、あなたを傷つける者はいない。安心して、眠って」
彼の胸の鼓動が静かに落ち着いていく。
カフェの軒先に、夜風がそっと吹き抜ける。
森に暮らす一匹の猫と、一人の少女——
そして、傷ついた王子の物語が、静かに動き出した。




