第33話 豊さの代償
夜の王宮は、まるで別世界のように静かだった。
白い大理石の回廊に、クラリスの足音だけが微かに響く。
彼女の心は、昼間に見た貧困街の風景に囚われたままだった。
笑顔を浮かべてトイレ掃除をする少年、血に染まった牛の解体場で無言で働く若者、
それを当然のように受け入れてしまう人々――そして、それを「制度」と呼ぶこの国。
気づけば足は、王宮の中庭へと向かっていた。
ふと見上げた月は丸く、少し滲んで見えた。
「クラリス?」
声に振り返ると、書斎の窓辺にレオンがいた。
月明かりに照らされた彼は、夜の静けさを纏ったような穏やかな表情を浮かべていた。
「……眠れないの。少し、話をしてもいい?」
「もちろん」
招かれるまま、クラリスはレオンの隣に腰を下ろした。
書斎の中には、灯された小さなランプの光だけ。ふたりを包む空気は、静かに温かかった。
「ねえ、レオン……」
彼女はゆっくりと、心の内を言葉にする。
「人ってね、一度“豊かさ”を知ってしまうと……もう、戻れないのよ」
レオンは目を細めて、黙って続きを促した。
「貧しい村で見たの。家族の食事が豆一皿だけの家と、馬車を何台も持つ豪商の家が同じ通りにあるのよ。
誰もがおかしいとは言わない。“努力の差だ”“運だ”って、そう片付けてしまう。
でも――あれって、本当に公平なのかしら?」
彼女の声はかすかに震えていた。
「贅沢に慣れた人は、“もう一度質素に戻ってくれ”なんて言われても、受け入れないわ。
それを無理に押し付けたら、今度は別の形で誰かが苦しむ。
誰もが少しずつ我慢すればいい……なんて、理想論なのかもしれないわね」
レオンはクラリスを見つめたまま、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……それでも、俺は諦めたくない。
誰かが“踏み台”にならなければ成り立たない世界なんて、おかしいと思うから」
「でも、その“踏み台”にされている人たちですら、自分の生活を変えようとは思っていない。
“これしかない”って、諦めて生きてる……。
なのに私は“もっと公正に”なんて言って、本当に何かを変えられるの?」
クラリスは膝の上で手を強く握った。
「――私は、誰かの暮らしを“奪う側”になっているかもしれない」
その言葉に、レオンはそっと彼女の手を取った。
「一人で全部背負うな。クラリス、君が抱えているのは、簡単に答えが出せるものじゃない。
でも、その苦しみを知った上で、前に進もうとしてるなら……俺は、君を信じたい」
クラリスは、ようやく目を合わせた。
「……ありがとう。あなたがそばにいてくれて、本当に……良かった」
その夜、ふたりは長く語り合った。
答えは出なかった。けれど、寄り添う心と支え合う絆が、彼女の中の不安を、少しずつほぐしていった。
“豊かさ”の裏にあるもの。
それを知ったクラリスは、次に進むための準備を、静かに始めていた。




