第23話 夕暮れの酒場
市場から裏手の通りへ回り込むと、空気の色が一変した。
夕陽が石畳を染めるその一角には、くすんだ看板の古びた酒場がひっそりと佇んでいた。
クラリスは足を止め、レオンの顔を見上げる。
「ここが……?」
「はい。日雇いの労働者たちが、仕事終わりに集まる場所です。町の底にある現実が、ここにはある」
そう聞いて、クラリスは静かに扉に手をかけた。
⸻
扉の向こうに広がっていたのは、酒と煙草の混ざった重たい空気。
錆びたランプが灯る薄暗い空間には、年季の入った木のテーブルと、無表情な男たちの背中が並んでいた。
その中心に、数枚の銅貨とサイコロが転がる。
「おい、次は俺の番だろ!」
「いや、三連勝中のヤツが続投だ。ルールはルールだぜ!」
小さな声で交わされる罵声。
勝った者が、次の飯を得る。
負けた者は、また明日も空腹に備える。
⸻
クラリスはその光景に、言葉を失っていた。
「……賭け事が、ここまで生活の一部になってるなんて」
「ええ。彼らにとって、サイコロは明日を決める神様のようなものです」
レオンが、苦々しい表情で言う。
「けれど、ただの賭けじゃない。これは、“思考から逃れるための手段”でもあるんです」
「思考から……?」
⸻
クラリスが視線を移すと、ひとりカウンターに座っていた男が、彼女の存在に気づき、微かに笑った。
「旅の方かい? こんなとこに来るなんて、よほど物好きだな」
「……よければ、お話を聞かせてください」
男は、乾いた笑いをひとつ漏らした。
「話すことなんざないよ。朝から働いて、昼も抜いて、夜はこうして一か八か。
考えてたらやってられねぇ。夢なんて見たら、朝起きるのが怖くなる」
「……考えるのが、怖い?」
「ああ。今の暮らしを真っ直ぐ見たら、心が折れる。
だから俺たちは、“考えないこと”が正義なんだ。
ギャンブルで勝てば、今日だけは勝者だ。明日は知らねぇ」
クラリスは目を伏せた。
サイコロを転がす音が、心の奥で鈍く響いた。
⸻
「どうして、抜け出そうとしないの?」
思わず問いかけた声に、男はゆっくりと首を横に振る。
「抜け出す方法なんて、知らねぇんだよ。
学校なんて行けなかったし、技能を学ぶ機会もなかった。
この街じゃ、生きるだけで精一杯なんだ」
クラリスの心に、深い悔しさが募った。
聖獣としての加護は、たしかに空気や作物に影響を与えている。
けれど、人の心や習慣、文化までは変えられない。
それが、“生きている人間の現実”だった。
⸻
店を出る頃には、空が朱に染まっていた。
クラリスはしばらく無言で歩き、ようやく言葉を絞り出した。
「私は、あの人たちを見下したくない。けれど……悔しい。
どうしてこんなに希望が届かないのかって。
どうして、希望を信じられないような社会で育ってしまったのかって」
レオンはゆっくりと頷いた。
「加護はきっかけにすぎない。
本当に必要なのは、彼らが希望を信じてもいいと思える世界を作ることだ」
クラリスは唇を噛み締め、静かにうなずいた。
「……なら、私は作るわ。
“考えなくてもいい世界”じゃなくて、
“考えることで変えられる世界”を」




