第22話 市場へ
「クラリス様、出発のお時間です」
そう告げた侍女の声に、クラリスは静かに頷いた。王宮のバルコニーから遠くに広がる街を見下ろしながら、彼女は小さくつぶやく。
「加護がこの国にもたらした変化は、本当に人々の生活を救っているのか……。確かめたいの」
魔法のように病を癒し、作物を実らせる“聖獣の加護”は、確かにクラリスがこの地に来てから実感されている。けれど、それは本当にすべてを救っているのだろうか。
王宮の静けさから、民の暮らしがどれほど遠いか――それが彼女の胸を騒がせていた。
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馬車が首都近郊の市場へと着いたのは、ちょうど太陽が天頂を越えた頃。市場には人々の活気と、夏の太陽に照らされた香ばしい果実の香りがあふれていた。
クラリスはフードを深く被り、目立たない服を着ていたが、その佇まいにはどこか気品がにじみ出ていた。
「わあ、すごい人……」
思わず漏れたクラリスの声に、レオンが微笑む。
「市場の中心は、いつもこんな感じだよ。けれど、よく見ると……」
クラリスが歩を進めるたびに見えてくるのは、鮮やかな果物の山の陰で、うつむいて歩く母子の姿、薄汚れた衣服の男たち、値段交渉に懸命な老女。
一見華やかな喧騒の裏に、確かにあったのは“格差”の影だった。
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「これ、よかったら」
通りの角で小さな子どもを抱いた母親が、ふとクラリスに話しかけた。差し出されたのは、布に包まれた小さなぶどうの房。
「え……いいの?」
「はい。お嬢さん、旅人さんでしょう? とても優しそうな顔をしているから……今年初めてとれたぶどうなんです。どうか、旅の疲れを癒してください。」
クラリスはその母の手をそっと取って、目を合わせた。
「ありがとう。とても、嬉しいわ」
母親はにっこりと微笑み、何事もなかったように去っていった。
その背中を見つめながら、クラリスは胸が熱くなるのを感じた。
「こんな人たちに、ちゃんと届いているのかな……私の加護は」
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その直後、通りの端で粗末な格好の青年が果物をひとつ手にし、露店の老人と口論している声が聞こえた。
「頼むよ、あと一銅貨でいいんだ! 昨日も仕事にあぶれたんだ!」
「悪いが、これ以上下げたら、わしが干上がる。慈善商人じゃないんでな」
男は肩を落とし、果物を元に戻して去っていく。
その後ろ姿を、老人も複雑な顔で見送っていた。
「民全員が、加護の恩恵を同じように受けてるわけじゃないんだね……」
レオンが呟く。
クラリスはその場にしばらく立ち尽くし、握りしめたぶどうの房の感触を確かめた。
「きっと、加護以外でもできることがあるはず。そのために人として生まれ変わったのだから。」
それが、彼女の旅の第一歩で生まれた、確かな決意だった。




