第2話 猫と森と、新しい居場所
朝焼けが、薄曇りの空をうっすらと染め始めていた。
森の入り口に停まった馬車の扉が、無造作に開かれる。
「降りていただきます、クラリス様……いえ、元・令嬢」
御者の男が、皮肉めいた声で告げる。
クラリスは無言のまま、重く湿った空気の中に一歩を踏み出した。
足元に広がるのは、雨にぬかるんだ未舗装の小道。
背にあるのは小さなトランク一つ。
父も義母も、別れの言葉すら寄越さなかった。
振り返る間もなく馬車は走り去り、霧の中に消えた。
誰も、彼女を見送らなかった。
それが、公爵令嬢だった自分の最期の“立場”だった。
「……わかっていたわ」
小さく、ひとりごちる。
それでも声は震えず、足取りも迷わない。
(もう、人の温もりに期待するのはやめたの)
クラリスは、森の奥へと進んでいく。
かつて母から聞いた話にあった、祖先の狩猟小屋。
そこを目指し、靴をぬらしながら霧の道を歩いた。
◇ ◇ ◇
森の奥。
古びた木立の間から、細い鳴き声が届いた。
「……にゃ」
その声に、クラリスは足を止める。
茂みの奥に、金色の瞳をした黒猫がいた。
ふわふわの長毛、艶のある尻尾。
まるで夢の中から抜け出してきたような存在。
「……あなたも、ひとりなの?」
彼女はゆっくりとしゃがみこみ、手を差し出した。
黒猫はじっとクラリスを見上げたあと、ふいに彼女の膝に飛び乗る。
《……君、猫語がわかるにゃ?》
クラリスの目が驚きにわずかに見開かれる。
だが、すぐにふっと微笑んで返す。
「ええ。前世が猫だったから、自然とね」
《にゃんと!当たりにゃ!》
「君も、話せるのね。……嬉しいわ」
クラリスは、猫の額にそっと指を添えて——今度は、猫の言葉で返す。
《こんにちは。わたしはクラリス。……でも、猫としての名前はまだ決めてないの》
黒猫の瞳がぱちぱちと瞬いた。
《にゃあ、きれいな発音にゃ!久々に“ちゃんと通じる子”に出会ったにゃ〜》
クラリスはくすりと笑った。
《ありがとう。あなたの言葉も、懐かしくて心地いい》
黒猫はぴょん、と飛び降りて歩き出す。
《よしにゃ。いい場所、案内するにゃ。そこの丘の上、昔の人間が住んでた家にゃ。魔力も残ってて落ち着くにゃ》
「……案内してくれるの?」
《もちろんにゃ。猫神様が“君の居場所を用意しろ”って言ってたにゃ》
クラリスは頷いて、黒猫の後ろについて歩き出す。
◇ ◇ ◇
蔦に覆われた古い屋敷が、霧の向こうに現れた。
木の扉は半壊しかけていたが、魔力の残滓が温かい気配を漂わせている。
クラリスはそっと手をかざし、呟いた。
「《解錠》」
カチリ、と音を立てて錠が外れる。
中に踏み入れると、長年の埃と静寂が空気を支配していた。
けれど、不思議と——落ち着く。
《ちょっと古いにゃけど、使えるにゃ。悪くにゃい》
「そうね。空気も生きてるわ。なら……」
クラリスは軽く指を鳴らした。
「《風精の息吹》」
風が舞う。
埃は舞い上がることなく、魔力に包まれて浄化されていく。
床も、壁も、窓も、次第に光を取り戻す。
《おおおにゃっ……これは王宮クラスにゃ!いや、それ以上にゃ!》
「ふふ……私は“お掃除魔法しか取り柄がない”って笑われてたけど」
《誰だにゃ、そんなバカは!》
「……王太子、よ。あのとき、ひとこと“ありがとう”でも言ってくれていたら」
クラリスはそっと目を伏せる。
(でも、もう……過去はいい)
彼女は天井を見上げ、再び指先に魔力を集める。
「《小修繕》」
柱がきぃ、と軋みながら再構築されていく。
一連の魔法を終えたクラリスは、ようやく息を吐いた。
「これで、ようやく……“暮らせる”わね」
《にゃあ〜、じゃあこの家、カフェにするにゃ?》
「ええ。私の料理と、お茶と、そして——癒しと」
彼女の瞳がきらりと光る。
「そして、ルナ。今日から私は、猫としても人間としても、ここで生きる」
魔力がきらめき、彼女の姿がふわりと変わる。
そこにいたのは、金色の瞳を持つ黒猫。
静かに、強く、生まれ変わったひとりの少女の姿だった。
《ようこそにゃ、ルナ。ここが君の新しい“世界”にゃ》
◇ ◇ ◇
朝の光が差し込む古びた屋敷で、
二匹の黒猫が、並んで尻尾を揺らしていた。