第1話 婚約破棄とと国外追放
「クラリス・フォン・エインハルト。貴様との婚約は、本日をもって破棄とする」
その言葉が王宮の玉座の間に響いた瞬間、空気が凍りついた。
誰もが息を呑み、次の言葉を待つことすらできず、ただ沈黙だけが支配する。
——クラリス・フォン・エインハルト。
この国の五大公爵家のひとつ、エインハルト家の嫡娘。
品位・教養・血統、すべてにおいて非の打ちどころのない、王太子妃として育てられた少女。
その彼女が、今——王太子アレクシス・ヴェルディアスに、婚約破棄を言い渡された。
玉座の下、赤い絨毯の上に跪くクラリスは、静かに顔を上げた。
紫水晶のように透き通る瞳が、冷えた光を帯びてアレクシスをまっすぐ見据える。
銀の髪が光を受けてきらめき、その表情は驚くほど静かだった。
「……理由を、お聞かせいただけますか」
その声に、震えも怒気もなかった。
ただ、王宮にふさわしい礼節と冷静さを湛えた、ひとりの“令嬢”の声だった。
アレクシスはわずかに眉をひそめ、ため息交じりに手を振った。
「可愛げがない。冷たい。感情を見せず、愛想もない。
こんな女に、私は心など向けられん」
その横に立つ赤いドレスの少女が、そっと袖を引いた。
「アレクシス様、言い過ぎですわ」
ルミエール——クラリスの義妹。
父の後妻の連れ子であり、今では“次の王太子妃候補”として噂されている少女。
「姉さまは、不器用なだけなのです。わたくし、ずっと見てきましたから……。
けれどアレクシス様、どうか、あまりお責めにならないでください」
「ルミエールは優しいな。君のような女性こそ、私の隣にふさわしい」
そのやりとりを聞いても、クラリスは微動だにしなかった。
(やはり、そう来たのですね)
アレクシスの声に感情はなかった。ルミエールの目には、勝者の誇りが宿っていた。
クラリスはただ静かに頭を下げる。
「……わかりました」
その場にいた貴族たちは、誰もが息を呑んだまま、彼女の動きを見守っていた。
この国の象徴とも言われた公爵令嬢が、ここまで静かに、完璧な作法で屈辱を受け入れている。
それは美しく、そして——哀しかった。
「さらに王命をもって、クラリス・フォン・エインハルトを国外追放とする。
罪状は王家への欺瞞と背信。明日の日の出までに、王都を離れるよう命ずる。
護衛の馬車は一台用意されている」
——罪など、何ひとつない。
それは皆が知っている。だが、王太子とルミエールを庇い立てするための方便だった。
父も、義母も、王宮の端に立っている。
誰一人、クラリスのために言葉を発する者はいない。
父は目すら合わせず、義母はほくそ笑みを浮かべていた。
(……ああ、そういうこと)
思い出すのは、幼い頃の母の言葉だった。
『クラリス。あなたの力は、人には理解されない。だから、決して誰にも言ってはだめよ。
あなたが猫であることを知っているのは、私だけでいい』
母は唯一、彼女の“秘密”を知ってくれていた。
だからこそ優しく、あたたかく包み込んでくれた。
だがその母はもう、この世にはいない。
(誰も、私を愛してなどいなかった)
胸の奥に、凍えるような風が吹く。だが、涙は出なかった。
すでに、泣くことにも慣れてしまったから。
「……御意にございます」
クラリスは立ち上がり、優雅に一礼した。
その姿には、敗北者の影など一切なかった。
——彼女はすでに、決めていたのだ。
(だったら、私は猫に戻るわ)
玉座の間の扉が静かに閉じられたとき、
その場にいたすべての人間は、“本物の貴族”の気高さを、改めて知ることになる。
だが、それに気づいたときにはもう遅かった。