第二話
ひとまず南に向かう街道を進むことにしたが、事前に整えていた最低限の旅装は問題なく役に立ってくれている。思ったよりも人通りが少ないが、そのうち国王派と反国王派が講和する話が広がれば商人連中や旅人が行きかうようになるだろう。急ぐ理由もないのでのんびりと歩き、何度か野宿を繰り返しつつ進むうちに、街道とは名ばかりの、人に踏み固められただけの地面と鬱蒼と茂る森が周りに広がるばかりになった。
ここから先は、本来人の領域ではない。逆に獣の領域へ自分が踏み込んでいくのだといわんばかりの空気が周囲に漂う中、一応身に着けている狼除けの護符をさすってみる。狼の神フェルの姿が刻まれた、丸い木片に荒い糸を通してあるだけの簡素なものだが、気休めくらいには役立ってくれる。別に自分は信心深いわけではないが、命がかかる場面では実際に効力があろうとなかろうと自分の気分ってやつが大事だ。
「...行くか」
誰にともなくそうつぶやき、歩き出そうとした瞬間だった。
「――――!」
いやに甲高く、心をざわつかせるような音が森の奥から聞こえてきた。
うちはあまりやらなかったが、傭兵団の中には村から物資を調達する際に、趣味の悪い饗宴を開くものも少なくなかった。そんな中で、似たような音を何度か耳にしたことがある。
「――――――ッ!!」
間違いない、女の悲鳴だ。それも、一度目より確実に近くなっている。
既に剣の柄に手を触れ、腰を落として耳を澄ませていた俺は、そう確信した瞬間できるだけ音を立てずに走り始めた。
もちろん、悲鳴の聞こえた反対方向に。
道を見失わずに済む程度に森へ分け入り、丁度身を隠せるような木の幹に身を預けながら様子をうかがう。この悲鳴の原因が人であれ、獣であれ、俺一人で状況が変わる確率は限りなく低い。
目下の優先事項は、悲鳴が止まった瞬間にできるだけ早くこの場を離れること。その間獣であれば捕食が、人であれば他の行為が続き、周囲へ注意を払う余裕がなくなる。
早すぎると巻き込まれ、遅すぎれば次は自分の番かもしれない。行動を起こす機を見計らう中、じっとりと汗をかきながら悲鳴のしていた方向をにらみつける。
そして、待っていた瞬間は思いもよらぬ形で訪れた。
「........!」
ガサガサと茂みを通り抜ける音がしたかと思うと、開けた道に急に飛び出したことに驚いたのか、それは少し立ち止まってしまう。逃げる間にあちこちに引っ掛けられ、破かれたその衣装はもともとは見事なドレスだったのだろう。決して安くはない青の染色が施されたそれは今では見る影もなく、着ている者の素肌をあちこちからのぞかせるような惨状にあった。
では当の本人はというと、普段ならば自慢の種だったと思われる黒い長髪を振り乱し、肌にあちこち赤い線が走っているもの、目だった傷もなく、自分を襲った脅威から何とか逃げてきたことをうかがわせていた。
そんな観察ができたのも一瞬のことで、事態は急速に進行する。
「...いやっ!!」
茂みの中からぬぅっと突き出た腕が少女の肩をつかみ、一気に引き寄せたのだ。その勢いに後ろ向きに倒れる形になった少女は、せめてもの抵抗で悲鳴のようなものを上げるが、立ち上がろうとする動きは肩をしっかと掴んで離さない、毛深い手によって止められていた。
こちらから見ていると、あたかも森に潜むという悪霊が少女を連れ去ろうとしているかのように見えたのだが、当然そんなこともなくす数舜後には手の持ち主が茂みから現れた。
「へへっ、いやぁまいったまいった。お嬢ちゃん、ずいぶん早く走れるじゃないの。俺も疲れちまったよ」
整えられていない黒いひげをだらしなく生やし、もとは動物の毛皮だったろう襤褸切れを身にまとった男は、言葉に反してほとんど汗をかいていない様だった。粘りつくような笑みを口の端に載せ、ギラギラとした目線を少女に注ぐその様子からして、ぎりぎり追いつかない距離を開けながら追いかけていたのだろう。そんな下卑た喜びに浸る男に対し、少女は一瞬気圧されたようだったが、そのまま気力を振り絞ると口を開いた。
「わ、わたくしが誰だか分かっていての狼藉ですか!わたくしの名前はセシリア=フォン=ローゼンブルグ!そしわたくしの父はクラウド=フォン=ローゼンブルグ三世、栄えあるアナトリア王国の一大領地を預かる伯爵です!わたくしの身に何かあればあなたはもちろんのこと――――」
とそこまで言った少女は、伯爵の娘であると身分を明かされた男が、一層粘りつくような笑みを深めたのを目にして思わず口上を止めてしまう。
「へっへっ、いや、あんたが伯爵のお嬢様だってのは最初から知っていたことなんでね。わざわざもう一回言われなくてもいいんでさ」
その言葉を半ば呆然として聞いていた少女は、やがて目の前の男よりももっと恐ろしいものを見たように、興奮に上気していた顔から血の気が引いていく。
「ま、種明かしをしちまうとね、俺に仕事をくれたのがその伯爵様って訳よ」
追い打ちをかけるようなその言葉に、少女は先ほどまでの威勢が嘘だったかのように固まったまま動かない。
「あ、諦めちまったんですかい?まあ追いかけっこでも十分楽しませてもらったんでね、こっからは役得てことで...なぁに、どうせ死ぬことは決まってんだから最後くらいお嬢ちゃんも楽しみましょうや」
狩りの大詰めとあって男も随分と興奮しているようだ、早口でそうまくしたてながら乱暴に少女を組み伏せる。
光を失った少女の目はこれから起こることからせめて目を背けようと森の中へ向けられ―――――
そして、目が合った。
目の前で進展する事態の奇異さに目を奪われていたこと、下手に動いて物音を立てるとこちらに注意をひいてしまう恐れがあることから動くに動けなかった俺は、間抜けにも半分ほど木の幹から身を乗り出した状態だった。
暗い緑と茶色ばかりの森の中では、それ以外の色はひどく目立つものだ。だから新人のころ森に潜伏するときは、にやついた先達から肌色を隠すために酷い臭いのする泥と苔を顔中に塗りたくったな、なんてことを思い出す。
「助けて...!」
その声は明確な考えをもって出されたものではなく、本当に限界の状況に置かれた人間から漏れ出た声であった。
実際に俺の耳に届いたかどうかはわからないほどか細い声だったが、その口の動きは確かにそういっていた。
そして、その声は確実に少女に最も近い男には聞こえていたのだろう。
「...あ?おめぇ誰に...」
半分ほど脱衣した状態でいぶかし気に立ち上がり、周囲を確認しようとする男。間違いなく武装をしているとは思っていたが、どうやら持っていた短剣は行為の邪魔になるからと、ベルトとともに外されていたようで、無造作に横に置かれていた。
「....ッ!!」
相手がこちらに気が付き、短剣に手を伸ばそうとするが、それよりも前に走り出していた俺の方に遥かに分があった。
走りざまに抜剣した勢いでまずは武器に伸ばされた手を打つ。
走った勢いと弧を描く動きで手をとらえた長剣は、あっけないほどにやすやすと男の右手を切り飛ばす。
「ま、待て――――」
盾にしようとでもしたのだろう、幾分短くなった右手を持ち上げた男は、急に自分が置かれた状況に頭が回りきっていなかったのか、ひどく不細工な笑みのようなものを浮かべていた。
「....フッ!!」
跳ね上がった長剣の勢いをできるだけ殺さず、頂点に達したところで左手も添え、左斜めに思いきり切り下げる。
「......!!」
切られた場所に気道も含まれていたのか、ゴボゴボと粘り気のある泡をいくつもはじけさせながら、男はなおも動こうとするそぶりを見せる。
「...あっ」
うつぶせに転がり、左手で地面をかこうとした男の背中に、ぐっと体重をかけながら剣を入れ、ひねりながら引き抜く。
そんな様子を見て何を思ったのか、少女は思わずといった形で声を漏らしていたが、今は返り血を浴びながらも新たな脅威に怯えた目線を送っていた。
「おい、お前―――」
怪我はないか、と続けるつもりだったが、突然横からの衝撃を食らい、危うく転倒しそうになる。
振り向きざまに左手で裏拳を放つも、既に襲撃者は離れた後で、俺の拳は虚しく空を切る。
先ほど殺した男よりもやや若そうな、やせぎすの男だった。
手に握られた血濡れの短剣と、粘っこい殺意に満ちたその目を見れば、さっきの男の仲間だろうということは容易に想像できた。
油断した。最初から複数人いることを想定していたはずだったのに、少女に気を取られていて周囲をろくに見ていなかった。
何らかの理由で遅れて追いついたところ、俺という乱入者がいるのを見て姿を現さず、俺が油断するのを隠れて窺っていたんだろう。なんとも折り合いの悪いことだが、起きてしまったことはしょうがない。
ちらりと左の脇腹を見れば、傷は思ったよりも深そうだった。戦闘の興奮で今は動きにくさと鈍痛を感じるのみだが、長引けば出血で動けなくなるだろう。
相手の方を再び見れば、向こうもそれなりに場数を踏んでいるらしく、俺の出血の具合を見るとにやりと笑い、あからさまに距離を取る。俺が生きている限り、長剣の間合いには入ってこないつもりだろう。なるほど、確かに戦闘においては最善の手だ。
一対一の状況ならば、だが。
「おい、お前、動けるか」
思ったよりも痛みが始まるのが早く、切れ切れになってしまった言葉だが、何とか聞こえるぐらいの声量は出せているはずだ。
「え...?」
声をかけられた少女はまだ状況が呑み込めていないのか、間の抜けた返事を返してくる。
状況をまるで理解していないかのような緊迫感のない返事に怒鳴りたくなるが、体力の消耗が思ったよりも早い。ここはぐっとこらえて最低限のことだけを伝えねば。
「あいつは俺に近づけないでいる。俺を背にしたまま走れ。お前の足でも数刻ほど走れば道沿いに猟師の山小屋があったはずだ。こいつ以外の追手がいなけりゃそこまでたどり着ける。運が良ければ小屋に人がいるかもしれない」
矢継ぎ早に発せられた言葉に、なんとか情報を飲み込もうとしつつも逡巡する様子が背中越しに伝わってくる。
「いいからさっさと走れ!助けてくれっつったのはお前だろうが!!」
鉄の味が口いっぱいに広がるのを感じながら怒鳴ると、びくりとした後よろよろと歩き出す気配が感じられる。
追手の男は途中まで怪訝な顔をしていたが、さすがにこの怒鳴り声で状況を理解したらしい。
憎々し気な顔で俺と走り始めた少女を交互に見つつ、どちらを優先すべきか決めかねている様子だ。
「クソっ!」
結局少女を追いかけるという当初の目的を優先することにしたらしい。武装しているとはいえ手負いの俺以外に道をふさぐものがないというのもその判断を後押ししたのだろう。俺が傷を負っている左側面から回り込むように動き、武器の間合いの差を縮めようとするあたり、まだ仲間を殺した俺への警戒が高いままなのが伺える。
そのまま短剣を腰だめに構えながら走りこんでくる男に対し、俺は痛みにしびれる左手を腰に回す。
「...ッ!?」
無理やり引き抜いた投げナイフは二本、もともと利き腕ではないうえに手負いの状態では狙いなどつけられたものではなかったが、運よく相手の顔近くに飛ばすことができ、相手も思わず防御のために体勢を崩す。たとえ直撃しなくとも、顔に何かが飛んでくればひるんでしまうのが人、いや、動物の性だな。
「ぬ、ううううううおッ」
痛みをごまかすように腹から声を振り絞り、右足を軸に左から長剣を振ることで独楽のように回転する。精一杯伸ばした右手と、柄の近くを握られた長剣を合わせるとちょうど人一人分くらいに達するのだが、その間合いでよろけていた男はせいぜい右手を上げるくらいしかできることがなかったようだ。
ごちゅ、という水っぽい音とともに、男の指が何本か切り飛ばされ、こめかみのあたりに剣身が当たる。
「お...?」
だが、致命傷には至らない。一人目を斬ってから血油をぬぐう暇もなかった長剣は、男が右手を挟んだことも相まって鈍器のように頭を打ったに過ぎなかった。
だがそれでもほぼ一回転した勢いの乗った一撃だ、男の思考を乱すには十分だったのだろう。もはや握れなくなった短剣は力なく地面に落ち、男はぼんやりとやや小さくなった己の右手と地面の短剣を見る。
いくら手負いとはいえ、それだけの隙があれば十分。
ぶつり、と剣の切っ先が布と皮膚を突き破る感覚が最初にあり、やがて奥の臓物をかき分け、背骨にあたるとゴリリッという、低いのに歯がむず痒くなるような独特な音が、剣の柄を通して手に響いた。
「あ、え...?」
急速に力を失い膝をついた男は、無垢な子供のような目をしてこちらを見ていた。
傭兵時代に知ったことだが、人は自分が確実に死ぬという場面でその事実を受け入れられないと、こういう表情をすることがある。
その視線から目をそらすように剣を引き抜いた俺は、今度は上からしっかりと首筋から胴へと剣を入れ、男が絶命したのを確認する。
「はぁ...はぁ...」
一人目は不意打ちに近い形だったとはいえ、俺一人で二人をきっちりと始末できたのは幸運だった。
こいつ以降新手が来ないのを見ると、追手がこいつらだけだったか、見失ったか、あるいは別の道から他の追手が放たれているか。
いや、とそこで思い直す。
貴族連中には何度か仕事をもらったことはあるが、たいてい現実を理解できず、言われたことを完璧にしないと気が済まない、自尊心の肥大した連中ばかりだった。おそらくこの二人が失敗したとみれば、もっと多くの人間を使うだろう。伯爵が自分の娘を殺そうとしたことが明るみに出れば、評判が落ちるのは確実だ。そして貴族ってのは評判に文字通り命だってかける。
俺には理解できないが、そういう生き物なんだろう。
いつの間に座ったのかも覚えていないが、気づけば腰を下ろしていたらしい。
じわじわとわき腹から血が流れ出ていくのを感じる。
それとともに手足の先がしびれ、冷たくなっていく。
すぐに止血帯でも巻ければ五分で生き残れたような傷ではあったものの、血を流したままあれからさらにもう一戦交えた後ではもう手の打ちようがない。
あの少女は結局逃げられたのだろうか。
そういえば、俺がここまでしたのに何か理由はあったんだっけ、とふと思う。
傭兵団が解散してから、なんとなく生きる理由なんてものを探したくて旅に出てみたものの、結局あまり距離を行かないうちにわけのわからないごたごたに巻き込まれ、どことも知れぬ道端でくたばろうとしている。
結局何もわからないまま死ぬのか。
でも、結局皆そんなもんなんだろうな。
何度も考えたことではあったが、答えはそんな単純なものなんだろう。だとしたら、最後に成り行きとはいえ人助けをできたというのも悪くないかもしれないな。
夕方の冷え始めた森の中、俺は一人じっとその瞬間を待ちながら、残された時間の中暇をつぶすようにそんなことを考えていた。