帰る術を探して
翌日、リナは朝早く目覚めた。プラトンの家の書斎には、パピルスの巻物がずらりと並んでいる。ギリシャ文字が書き込まれたそれらは、当時にしては相当な蔵書だ。
朝食後、リナは意を決してソクラテスに「現代に戻る方法」を相談することにした。もしかすると彼の知恵や人脈なら何か手がかりを得られるかもしれないと思ったからだ。
「戻る方法……? そんなものはわたしにはわからぬ。だが、一緒に考えてはやろう」
ソクラテスは相変わらずの調子で言う。「ともに考えること」が彼の基本姿勢なのだろう。リナは少し拍子抜けしたような気分になった。彼が“魔法の呪文”でも知っているわけではないのだ。
そこへ、先日ちらりと顔を見せた若い哲学者が訪ねてきた。プラトンの弟子にして、自然学に興味を持つという。リナは名前を聞いて一瞬どきりとする。
「アリストテレスです。プラトンの紹介で、今日はソクラテス先生の話を伺おうと思って来ました」
そう名乗る青年は、どこか理知的な雰囲気で、記録好きな様子を漂わせている。
「君が噂の“未来から来た”という女性か。実に興味深い話だね。ぜひ詳しく聞かせてくれないか?」
アリストテレスは目を輝かせている。「未来の国はどんな仕組みで動いているのか? 生物学はどう進歩しているのか?」など、次々と質問を投げかけてくる。
リナは逆に、今この状況で説明するほうが難しいと感じた。現代の技術や社会構造を“古代ギリシャ人に説明する”というのは至難の業だ。しかも自分自身、その仕組みを深く理解しているわけでもない。スマホだってなぜ動くか正確には説明できない。
けれど、熱心なまなざしを向けるアリストテレスに応えないわけにもいかず、なんとか言葉を探す。
「わたしの時代では、いろいろな機械やシステムがあって、遠く離れた人と瞬時に情報を伝え合ったり……。ただ、わたし自身もそれをちゃんと仕組みまで説明できるわけじゃなくて……」
「なるほど、それは知るべきことがたくさんありそうだな。それなのに、人々はそれを“不思議”と思わずに使いこなしているのか?」
鋭い視点だと思った。リナは言葉を失いかけながら、「はい、そうかもしれません」と答える。普段は気にしていなかったが、よく考えたら自分は機械の基礎すら説明できない。ただ「あるもの」として受け入れてきたのだ。
「……やはり、わたしはわかっていないことだらけなのかもしれない」
ポツリとつぶやくと、アリストテレスはやさしくうなずく。「それは恥ずかしいことではない。むしろわからないことを認めるのは大切な一歩だ」と言う。リナはその言葉に少し慰めを感じながらも、「また“無知の知”の話に戻るのか」と頭を抱えたくなる。