時のゆがみ
その瞬間、リナは脳裏に小さな閃光が走るような感覚を覚えた。頭が一瞬くらりと揺れ、視界がブレる。まるで足元が崩れたようなめまいがして、倒れこむように地面に膝をついた。
熱せられたアスファルトの感触も、セミのような虫の鳴き声も、さっきまであったはずなのに、急に消えてしまった。慌てて身を起こし、あたりを見回す。
「な……に? ここ……」
見渡すと、アゴラの柱らしきものが連なる広場のような場所だが、先ほどまでの「遺跡」ではない。まるで誰かがタイムマシンで古代に連れてきたかのような、土のにおい漂う異世界。
人々がいる。髪をまとめた女性や、チュニックのような衣服を着た男が行き交い、家畜のヤギや羊までもが広場を横切っている。先ほどの観光客の姿はどこにもない。スマホを取り出してみても圏外だ。GPSが現在地を示さないばかりか、画面が砂嵐のようにノイズを走らせている。
そんな混乱の中、リナは偶然にも、ある人物の熱弁を聞き取ってしまった。
「汝は本当に知っているのか? 知っているつもりになっているだけではないのか?」
低く、そしてよく通る声。その声の方を振り向くと、そこには長い髭を蓄えた男が、周囲の市民に問いかけるように腕を広げていた。裸足で砂埃を踏み、粗末な衣をまとっている。
(まさか……いや、あり得ない)
リナは声も出せず、その男を目で追った。彼は市民に囲まれながら説教をしているわけではない。むしろ「問い」を投げかけ、相手の答えにさらに「本当か?」と深掘りするように話している。よく見ると、男の周りには若い弟子らしき男性たちが複数いて、熱心に記録している。
リナの頭には、自分がいつも読んでいる古典哲学の本に載っていた肖像――「ソクラテス像」がフラッシュバックした。
信じ難い話だが、この世界は古代アテナイそのものなのだろうか。そして、あの男こそ、歴史上の大哲学者ソクラテス……?
ちょうど彼が振り向き、リナと目が合った。突如として呼吸が苦しくなる。彼の目は、まるでまっすぐ心の奥を見透かすかのようだ。ソクラテスは周囲の人混みを掻き分けるようにこっちへ近づいてくる。
「そこにいる娘さんよ。いや、そなたは娘というには背も高く、頭脳も若き哲学者のようだが……見たところ、どこか別の地から来たのか?」
「……え、あ……」
リナは口を開こうとするが、言葉が出てこない。混乱に拍車がかかり、どのように説明すればいいのかわからない。そもそも言語は通じるのだろうか、と心配だったが、なぜか会話になっている(後で考えれば、これは石版の力の影響なのかもしれないが、そのときのリナにそんな余裕はなかった)。
ソクラテスはにやりと笑う。その顔には世の全てを見通しているような風情がある。
「何かを知ろうとしてここに来たのだろう? ならば、まずは問いを立てねばならぬ。そなたはどんな問いを持っている?」
問い……? たしかに、リナは「タイムスリップした?」とか「どうやって元の時代に戻る?」とか混乱の最中にいくつもの疑問を抱いている。しかしすぐに口にできるほど整理はできていない。
人混みが少しざわつき、リナが答えに窮しているとき、一人の青年が割って入った。やわらかな髪と誠実そうな眼差しをした若者だ。
「師よ、彼女は相当混乱しているように見えます。まずは落ち着かせて、事情を聞いて差し上げたらいかがです?」
その青年は、リナが大学の講義でよく聞いていた名前――プラトン。その若き日の姿かと思われた。彼は非常に礼儀正しく、ソクラテスを立てつつも客観的な視点を示す。
「ふむ。では少し座って話をしよう。……お嬢さん、名前は?」
「リ、リナといいます。日本という国から……いや、それよりも……」
「日本? 聞いたことのない土地だ。だが、わたしはその“聞いたことがない”という状態こそ大事にしている。世界は広いからな」
そう言ってソクラテスはまたにやりと笑った。リナは呆然としながらも、もし本当にこの人がソクラテスなら、今ここで起きている現象は何なのだろうと思わずにいられない。