新しい一歩
帰国後、リナはさっそく指導教授の羽賀に報告をした。もちろん、にわかには信じてもらえない話だったが、リナが持ち帰った石版の欠片を見て教授は何かに気づいたようだ。
「これ、どうもただの観光土産とも違うようだね。現代ギリシャ語というより、古代の文字に近い要素があるけれど、どういうわけか筆跡が新しい。うーん……」
教授は首をひねるばかりだ。リナ自身も、詳細はうまく説明できない。ただ確かに、あのアテナイでの日々は存在していた。自分の意識を変えてしまうほどの衝撃として。
夏休みが終わり、大学のゼミが再開された。リナは最初のゼミの場で、今回の留学で感じた「哲学は机上の知識だけでなく、互いに対話してこそ意味を持つ」ということを主題に小さな発表をした。
これまでのリナなら、資料をコピーして渡し、モゴモゴとした口調で終わらせていただろう。だが、その日は違う。自分が考えていること、そして考えるに至った背景を、はっきりとした声で語った。その姿に同級生たちは驚き、興味を持って質問を投げかける。リナは一瞬たじろいだが、ソクラテスが浮かんだ。
「問いを立てることが出発点……」
リナはそう自分に言い聞かせながら、クラスメイトの質問にできる限り答えていく。わからないことがあれば「そこはまだ考え中なので、一緒に考えてみたい」と正直に言えるようになっていた。
ゼミが終わり、教授はしみじみとリナを見つめて言った。
「君、なんだか変わったね。前は自分の思いを語るのを怖がっていたのに、今日は見違えたよ」
リナは照れ隠しに笑い、胸ポケットをそっと撫でた。そこにはまだ木簡がある。それを見ていると、古代アテナイで得た記憶が温かく蘇ってくる。
研究室を出ると、廊下で同じゼミの男の子が声をかけてきた。
「リナさん、さっきの発表面白かったよ。俺も哲学の対話とか、正直よくわかんないけど、よかったら今度、一緒に資料探しに行かない?」
「……うん、行こう。わたしもまだまだわからないことだらけだし。たぶん、一人じゃ考えきれないから」
そう言って微笑むリナの目には、かつての躊躇する暗さはなかった。誰かと一緒に問いを立て、答えを探していく――その喜びの入り口にやっと辿り着いたのだ。