石版の伝説
リナは大学三年生。専攻は西洋哲学史。もともと高校時代から世界史や文学が好きだったが、大学に入ってから本格的に「思想」の世界に興味を抱くようになった。もっとも、その興味はどこか観念的なもので、実生活には直接結びついていない。読書やレポートの執筆は好きなのに、人と議論をしたり、意見を交換したりするのは苦手だった。
ある日、指導教授の羽賀に、「夏休みを利用してギリシャへ短期留学してみないか」と勧められた。ゼミではちょうどソクラテスやプラトン、アリストテレスなど、ギリシャ古典哲学の文献研究をしている時期だった。海外になど行ったことのないリナは尻込みしたが、教授は「ソクラテスの言う“対話”を直接感じてみるには、あの土の匂いと空気を吸っておくのがいちばんだ」と言う。
実はリナにはひとつ、密かなコンプレックスがあった。高校までは成績優秀だったため周囲からは「優等生」のように見られていたが、実際は人前で発言するときにうまく言葉が出てこないタイプで、それを気づかれたくなくて常に準備万端で臨んできた。だが、大学で「哲学の議論」をしようとすると、自分の本当の考えが何なのかもよくわからず、結局は文献を要約するだけになってしまう。そんな自分を脱却したいという思いが、教授の言葉に背中を押される形で芽生えた。
そして八月の下旬、リナはアテネ国際空港に降り立った。ギリシャの空気は乾いていて、夏の太陽がまぶしい。指導教授が手配してくれた短期の学生向けホームステイ先に滞在しながら、アテネ大学の夏季講座に参加し、論文の調べものをする手はずになっている。
最初の数日は講義と図書館の往復で忙しく、観光をする暇などほとんどなかった。だが講義の合間に散策したアクロポリスの遺跡やパルテノン神殿の雄大さには息を呑んだ。石柱が並ぶ光景の中でふと風を感じると、古の人々の囁きが耳元で聞こえるような、そんな不思議な錯覚に陥る。
ある夕暮れ、リナは講義後に足を伸ばしてアゴラを訪れた。アゴラ――古代アテナイで政治や商業、哲学の議論が行われた公共広場。ふと、この場所でソクラテスが歩き回り、さまざまな人に「汝は本当に知っているのか?」と問い続けたという逸話を思い出す。陽が傾いているせいか観光客の姿はまばらで、遺跡の石段や柱が朱色の光を受けて淡く染まっていた。
「アゴラには、賢者の魂が宿る石版がある――」
そんな噂をホームステイ先の少年が教えてくれたのを、リナは思い出した。観光ガイド本には載っていないが、地元には古くから語り継がれているらしい。好奇心が湧き、リナは広場の片隅を丹念に歩き回った。やがて瓦礫のように崩れた一角の奥に、誰も踏み入れないような細い隙間があるのを見つける。
そこは半ば崩れた壁の裏側になっていて、観光客が入り込むような場所でもなかった。夕日の赤い光が壁の隙間に差し込んでいて、リナはなぜか胸騒ぎを感じながら覗き込む。すると、手のひら程度の大きさの石板が、埃まみれの地面の上に落ちていた。
「なに、これ……?」
拾い上げてみると、ほこりを払った表面に、薄っすらと文字が彫られている。しかし妙なことに、それは古代ギリシャ語ではなく、どちらかというと現代ギリシャ語に近い書体……しかも、短いメッセージのような文が刻まれていた。リナは辞書アプリを使い、なんとか読み解こうと目を凝らす。
すると、こんな言葉が浮かび上がった。
「汝は知っているのか?」
まるで、ソクラテスが呼びかけるあの有名な問答の一節を体現したかのような、問いかけの文言だった。