物陰 へたり
「怖い話ってのはないですけど、変な体験ってのはありますよ」と、彼はそう言った。
「あれは小学生の頃だなあ。勉強につまずいたって感覚もなかったし、体、小さかった覚えがあるから」
夏休みの話だという。
ちょうどいま時分、田舎に連れてってもらって祖父母の家でお世話になっていたときだと。
「お盆だから、言われるまま仏壇に手を合わせて。線香さえあげてしまえば親も帰っちまうし、じいちゃんばあちゃんはうるさいこと言わないし。というか朝から畑仕事出てますからね」
田舎なんでやることないし、虫取りとか行ってたっすよ。
そう言いながら、彼は懐かしそうに目を細める。
じいちゃんばあちゃんちは山が近くて、裏手に登っていけたんです。道らしい道はあんまりないけど、獣道というほど荒れてもいないし、探検気分でよく歩いてましたね。
少し登ると、神社があるんですよ。
いえ、そんな綺麗なもんじゃなくて。廃神社っていうか。石でできた鳥居も苔まみれで、本殿らしきものもだいぶ朽ちてて。だから中に入っていこうとは思わなかったけど、そこはセミとか、昼でも運がよければカブトムシとかいて格好の遊び場だったんですよね。ひとりだけど充分楽しく遊んで、夕方になるとばあちゃんが作ってくれた夕飯を食べながらこんな虫とれたよって話す、そんな日々を過ごしてました。
ああ、その神社のことは祖父母も知ってました。わしが若い頃はまだ宮司さんもいて遊んでもらったなあ、なんてじいちゃんが笑ってましたね。
その日も、朝からその神社で虫とってました。セミがずうっと鳴いてて、とんでもなく強い日差しが照りつけてて。神社だから大きな木が多くて、日陰には困らなかったけど汗がふきでてきましたね。
ひときわ大きい、あれはクスノキかな、その根元で休んで水筒に入れたまだ冷たい麦茶をひとくち飲んだときに、それに気づきました。
声が聞こえるんですよ。
明らかに人の声。ぼそぼそ喋ってる声。あれだけセミが鳴いてるのにそれが聞こえるってのはいま考えると変な話ですけど、そのときはそんなこと思わなくて。
「えっ?」って。でももしかしたら近所で同じように帰ってきてる子とかいて、自分に気兼ねしてるのかなと。それで声を探したんです。まあ、なんだかんだ言って寂しい気持ちもあったんでしょうね。遊ぶんなら一緒にまぜて、みたいな。
それは朽ちた社の裏手から聞こえてきていました。社の裏手は藪になってて、確かに子どもくらいなら隠れられそうだったから、ひょいって覗き込んだんです。何も考えずに。
そこにいたそれを、未だにうまく表現はできません。
それは真っ黒で、でもあの世界一黒い物資、あれなんでしたっけ? 名前忘れましたけどあんな光を吸い込む感じではなくてただ黒くて、裏の陰の、ちょっと湿って苔とか生えてるそこにへばりついていました。お祭りでもらったスライムみたいな感じというか。
それに、目がひとつついてました。ええ、目ですよ。人間の目。黒い瞳の。白目もあって、まつげも生えてて、まばたきしてたかは覚えてませんけど。
それがただ宙を見つめてる。そして、声はそいつから聞こえていました。口っぽいものは見当たりませんでしたけど。ぼそぼそぼそぼそ。こんなに近くにいてもなんと言っているか聞こえなくて。
さすがに仰天したと思うんですけど。驚きすぎて声出なかったのかな。そいつを凝視してました。黒い、妙にへたった感じのあるそれに、何も見てない目がついてて、ぼそぼそ喋っている。それだけだけど、何なのか分からなくて、どうしたらいいか分からなくて。
けど、そうしているうちに気づきました。
声が大きくなってきている。
人の声が、男のものか女のものかすら判別できない声がじわじわと大きくなっている。目は、相変わらず自分なんか見ていない。空を見てる。でも、理解できないと思っていた言葉が、声量が大きくなるに連れて何となくわかりそうになってきていて。
そこで我に返って、全速力で逃げました。なんだろう、あれを理解したら終わりだって感じました。ありがちですけど。
でもたとえば、スズメバチを見たらやばい逃げなきゃって思うでしょ? そんな感じで逃げました。
その日のことは祖父母には言わずに、ただばあちゃんが今日は何も取らなかったのかいってちょっと不思議そうに言ってきたけど、曖昧に誤魔化して。
そのときはそれだけなんですけど。
「そのとき?」
私は思わず口を挟んだ。子どもの頃に遭遇した一夏の怪異。そういう経験談ではなかったのか。
彼は肯首して、目を伏せたまま少し笑った。口を湿らすようにブラックのコーヒーを飲んで、「続きがあるんですよ」と言った。
ぶっちゃけ、そのときのことなんて忘れかけてました。だって、ねえ。小学生の頃の話だし。祖父母ももういないし。あのあとは神社を敬遠してた気がするけど次の年の夏休みはまた行ってましたし。ああ、それ以降はそいつはもう見てません。だから忘れてたんですけど。
ついこないだです。
会社出て、ちょっと時間遅かったけど腹減ったから明るい通りでメシ屋探してました。
そんなに都会って町でもないけど会社があるあたりはそこそこ人や会社や店も多いから、いろんな建物が並んでるんですよね。
それはその隙間でした。ビルとビルの間、なんかこう室外機とか、ゴミのポリバケツとかがあって、人がひとり入れるかなあくらいの。よくありますよね。いやに暗いところ。
声がしました。ボソボソいう声。
そのとき小学生のときのその体験もう忘れてて、つい近寄っちゃったんですよね。誰か具合悪くて倒れてんのかとか余計なお世話考えちゃって。
それがいました。黒くて、へたり込んだみたいなそれ。やっぱりどこも見てない真っ黒い瞳の目がついてて、そいつが喋ってる。
それを見た瞬間にぶわっと小学生のときのこと思い出して。今回は「うわっ」とか声出ちゃって、またやばいって全力で光のある大通りまで逃げました。追いかけてきたりはしなかったんですけど。
彼はまたひとくち、コーヒーを飲んだ。白いカップの中の、さざなみ立つ黒い液体を眺めて何度も唾を飲み込み、やがて決心したように、でも顔は上げずに彼は言った。
それの声、大きくなってたんですよ、今回は最初から。
だから、少しだけ聞き取れちゃいました。
そこで彼は顔を上げた。初めて彼と目があった。彼は泣きそうな顔をしていた。誰かに言いたくて仕方なかったんだと、縋りつきたいとその顔が言っていた。
僕の目、もっと色薄かったんですけど。もうだいぶ黒いですよね?