2. “You see, but you do not observe.”
「おっ、来はったな」
デオが声を上げたので、リオードも端からちらりと通りの様子を見やった。その男の体つきは屈強で、服装を見るにどうやら彼はポリスの訓練生らしい。鞄などは抱えておらず、手荷物のない身軽な状態だ。表情は、なんとなくリラックスしているような気がする。そんなことを考えているうちに、男は反対側の建物の裏へと消えていった。
「なんや、あんさんも見とったん? 一緒に勝負しよか?」
「いえ、僕は探偵としてまだ未熟ですし……」
「まあまあ、そう謙遜せんでもええって。ほんなら、勝負は置いといて、参考意見として言うだけいうってのもありやで」
デオがにこにこと笑みで続きを促して来るので、リオードは周囲の様子をうかがった。ジムはつまらなさそうに目を伏せて風を感じていて、グレイが戻って来る気配もない。いつもの通り味方がいないことを察して、リオードはしぶしぶ自信なさげに口を開いた。
「じゃあ、えっと……ポリスの訓練場ですかね?」
「理由は?」
「あの人、ポリスの訓練生に支給される制服を着ていたので、実地訓練か何かから訓練場へ戻るところなのかな、と」
「なるほどな。ジムはんはどう思う?」
「レストラン」
リオードがもごもごと答えたのに対し、ジムは堂々と言い切った。デオはおっという顔をしてからまた狐のように目を細めた。
「根拠は?」
「カロンの言う通り、あいつは確かに訓練生だろうな。だが、時間を考えればおそらく今ちょうど休憩に入ったところだ。それと、あの男、左足を動かすときにほんの少しだけ服が引っかかるようなタイミングがあった。左側のポケットに少し大きめの財布が入っている可能性が高い。ポリスの下っ端は職務中に私物なんて持ち歩かねえし、それも踏まえて休憩中と推測したわけだ。最近あっちの方面にできたレストランが『ボリューム満点!』なんて文句で売り出してたから、そこへ昼飯でも食べに行くんじゃないか?」
「なるほど……!」
「さすがはジムはん。お見事や」
デオが満足気にわざとらしく手を叩く。その音に耳を委ねながら、リオードは呆然としていた。ジムの推理を聞いたことはこれまでにも多分片手の指の数くらいはあっただろうが、その度に自分が得ている情報の少なさを知るのである。同じ時間、同じ場所から同じように同じものを見ているにもかかわらず、ジムはいつもリオードの想像できないくらい広い世界を見つめているのである。こういう時、リオードは自分の探偵としての素質の無さをいつも呪いたくなるし、同時にジムが周囲から認められていることに深く納得するのだ。
「ほな、二問目といこか。次はわいが答えるで」
「勝手にしろ」
「なんやもう、ほんま冷たいなあ。せっかくお隣になったんやから仲良くしようやあ」
「なんだよそのきしっょい喋り方」
「あんさん、これどう思う?」
「すみません、これが通常運転なんです……」
デオがちょいと眉尻を下げて訊いてきたので、リオードはどうしようもなくなってそう言った。ジムの雑な対応は今に始まったことではなく、もう周囲も諦めの表情で認め始めているからには、リオード一人でどうにか改善できるものでもないのが事実だった。
変な間があいて気まずく思っていると、通りに人影が差して「あ」と声を上げる。それに反応したデオは、目をにんまり細めながら目的の人物が視界に映り込むのを待ち構えた。
左の壁の奥から現れたのは、美しい赤髪の女性だった。黒色をベースとした外行きらしい上品なワンピースの裾を揺らしており、手元には洋服店の紙袋が携えられている。お洒落を楽しんでいる様子は年相応に思われた。すると、何かを探すようにきょろきょろと動いていた目線がふっとこちらをとらえる。すると、女性は小さく息をのんで歩き去ってしまった。
女性の姿が見えなくなると、デオははあとため息をついて、不貞腐れたような口調で呟いた。
「……あかんなあ、これじゃ問題にならへんわ」
「え? どういうことですか?」
「あの子、多分行先あらへんもん」
「行先がない?」
リオードが首を傾げて眉間に皺を寄せているのを横目に見て、デオはまた人差し指で宙に円を描きながら説明しだした。
「あの子、両足の動き方がちとずれてたやろ? おそらくやけど、右足の健のあたりに擦り傷でもできたんとちゃうかな? でも、新しい靴を買ったばかりの子がショッピングに行くって言うのもなんか変な気いするし、靴擦れの理由はそこちゃう気がすんねん。となると、結構思い切り走ったんかと思ったんよ。ほら、いくら履きなれてたとしてもヒールの靴で走るのは大変そうやし」
デオの推理に、リオードはほうと息を吐き出す。しかし、これが全てというわけでもなさそうなので、黙って耳を傾け続ける。
「そんでな、あの子さっきこっちのこと見とったやろ?」
「確かに、目があいましたね」
「わいはこの街来てからまだ一日も経っとらんけど、こんな明らかにヤバいところ……それこそミドルに辿り着きそうな細道、あんなお上品な格好したお嬢さんが見るもんかねえ? 普通は見いひんと思うんやけど」
至って普通の声色で述べていたにもかかわらず、ジムが「あんたみたいなクレイジー野郎なら見るんじゃねえか?」と余計な野次を飛ばした。リオードは一瞬ぎくっとしたが、デオは寧ろ反応があって少し嬉しそうな表情をしているようにも見えた。デオの顔色が良くなったのを面白くないと思って、ジムは誤魔化すように口を開いた。
「ま、癪だがそいつの言ってることは正しい。死にたがりの阿呆以外にとっちゃ人生において関わる必要のない道だろうな」
「……ということは?」
「楽しくショッピングしてたら誰かに見つかってしもて、そんでその人から逃げきるいい場所探しとるんとちゃうかなあ」
「なっ、それってあの人が危ないんじゃ……!?」
リオードが焦った表情でそうこぼすと、デオはふっと笑い声を洩らした。
「あくまで推理やで、推理。あんさんがそんなに焦ってくれるっちゅうことは、わいの話はそれなりに説得力があったってことでええんかな?」
「で、でも……」
「そんくらいのことは日常茶飯事だし、この街じゃ驚くほどのことじゃねえだろ。というか、お前は人の心配する前に自分のことをどうにかしろよ」
デオの言うことに納得しきれなかった様子のリオードだったが、ジムにそう言われてしまえば、返す言葉は見つからなかった。
しれっとした表情で居座るジムと、その隣で「すみません」と呟いたリオードを対面の建物から眺めていたデオは、その光景が妙にしっくりきた。不思議な感覚に何度か瞬きをしてみたが靄は晴れず、結局次の人が現れた頃に洩らした「あ」というぼやけた音で思考をうやむやにされたのだった。
「ジムはん、次の人が来はったよお」
デオが声をかけると、ジムはふいと黒目だけを動かして通りの様子をうかがった。そして歩いてきた女性を視認すると、「うげ」と漏らした。すると、その小さな声が届いたのか、女性がジムの方を見上げる。目線があうと、今度は舌打ちがそれなりの音量を伴って発せられた。
「相変わらず可愛げのない小娘だね」
「うるせえ。こっち見んなクソババア」
女性はため息をつきながら通りから路地へ一歩踏み込むと、片足に重心をかけて腰に手を当てながらため息をついた。躊躇なく悪態をつくジムに、デオが窓にもたれかかって不満げな声をあげる。
「なんや、ジムはんの知り合い? それはずるいわあ」
「おや、もしかしてあんたが噂の『隣人殺し』かい? まさかグレイたちとこんなにご近所とはね」
「おばはん、わいのこと知っとるん?」
「年の功は敬うべきだとは思わないかい、若造」
「…………」
「そんな目で見ても無駄だよ。だがまあ、勢いと感情に任せて噛みつかないところは評価されるべきだね。あんたも見習いな」
どうせまた何か言われるのだろうと予想していたジムは、事前に用意しておいた「余計なお世話だっつーの」という言葉だけぶっきらぼうに投げつけた。しかし、特に効果はなかった。
「紹介が遅れたね、私はティアナ・ジルク。しがないポリスの一人だよ」
「あー、わいはデオ・ナロップ。よろしゅう……」
デオの語尾は完全に霞んでおり、表情もややしかめっ面になっている。デオにも苦手なタイプの人っているんだなあ、と唯一飛び火していないリオードは興味津々で傍観者に徹していた。
「……悪かったね。若者の青春を奪う意図はないんだよ」
「誰がこいつとアオハルするって? ったく、早くどっか行けって」
「言われなくてもそうするさ」
ティアナはいつもと変わらないジムの様子にため息交じりに笑いながら、そう言って早々に立ち去っていった。
拗ねたジムと、気まずく息を詰めるデオ。これは傍観者に徹している場合ではないのかもしれない、とリオードが考え始めたところで、ジムがわざとらしく「あーあ」と声を発した。あまりにも唐突だったので、リオードは密かに驚いた猫のように半歩後ずさった。
「三つ編み信者のヘンテコゲームに付き合ってやったら、おまけでクソババアまで出やがった。今日はつくづくついてねえわ」
最初のうんざりした言葉より少しだけボリュームを下げてぶつぶつと文句を垂れながら、ジムは一旦窓辺から退いた。デオはこの機に及んで逃げるつもりかと一瞬目を曇らせたが、その心配は無用で、ジムは固定電話の近くにあったメモにペンで何かを書いて破ると「おい、カロン」と呼びつけた。リオードが振り返ると、戻ってきたジムは適当に折られた紙を人差し指と中指で挟んだ手でリオードの胸をとんと叩いた。
「喜べ。お前に仕事だ」
「え、仕事、ですか? でも直近の依頼は……」
「そういうんじゃねえ。ちょっとしたおつかいだ」
「まさか、それってジムさんの私情じゃないですか……!?」
「お前の役職には雑用係も含まれてんだろ? 懇切丁寧に注文内容まで書いてやったんだからさっさと行ってこい。三分だ」
くいと顎で指図する様子を見れば、ノーと言わせる気がないことは明らかだった。リオードはしぶしぶそのメモを受けとると、気弱な声で「行ってきます……」と口にして事務所をあとにしたのだった。