眩きレブレーベント・第一話② 最悪の始まり
「……え?」
思わず声が漏れる。混乱しながら水路を覗き込むと、赤黒い何かの更に上流から、物体が流れてきた。
紛れもない、ヒト。
無残に不規則にばらばらにされた、人間の体だった。男の体――――40歳過ぎぐらいに見える男の顔が半分、ゆっくりと赤黒い水の中へ――――血の中へ、沈んだ。
「なっ、ん……!」
吐きそうになって、口元を手で覆う。
ちょっと待ってくれと、叫びそうになる。誰もが一度は憧れる「異世界」にまでやってきて最初に目にした光景が、ばらばらにされた人間の死体だなんて、あまりにも酷い筋書きだ。そんなことがあっていいはずがない。幻であってほしい――――そんな願いも空しく、水路は血に染まっていった。
視界の端に、何かが動く影を見た。
水路に繋がる、住宅の間の小道――――ショックで動けないでいる総司の目から逃れるように、何かが凄まじい速さで動いたのを、確かに見た。
それを認識したと同時に、総司も駆け出していた。
女神に叩き込まれた戦う者としての感覚が、動いた何かの気配を確かに捉えて離さなかった。一体、あの黒い影が何なのかは全くわからない。だが――――
ここで逃がしたら大惨事になる。確証はないが確信がある。あの無残な死体を創り出したのは間違いなく、今逃げ出した黒い影だ。
「くっそ……!」
街の構造もわからないから、気配の在処は何となくわかるのに、そこまで辿り着くことが出来ない。いっそ屋根の上まで飛び乗るか――――今の総司の身体能力ならば、それが容易いことだと、総司はもうわかっている。
だが、そう決断する前に、総司は思い知ることになる。
逃がしたら大惨事になる――――そんな考えは甘かった。
これから大惨事になるのではない。
もうすでに、大惨事は起こっていた。起こっていて、終わった後だった。
総司が落下した場所は、街から外れた家畜の住処だった。だからこそ、街の大通りに出るまで、そのことに気付けなかった。
恐らくは朝市――――普段は早朝から賑わっていたであろう、商店の並ぶ通りは、赤い血に濡れていた。
ヒトの気配など微塵もない。どうりで、誰にも会わないはずだ。
目の前に並ぶ死体の山を見て、総司は現実感なく、乾いた笑い声を少しだけ上げた。
総司がこの世界に――――この街に来た時には既に、最初から皆死んでいるのだから、会えるはずがないのだ。
投げ捨てられた死体は、原型を保っているものが少なかった。多くは体を“食われて”、全ての部位が揃った死体は見つけられそうもない。
「何だそりゃ……なぁ、オイ、レヴァンチェスカよぉ」
ここにいない女神の名を呼び、総司は叫ぶ。
「なぁにが“ファンタジーの世界”だ、ふざけんな!」
石畳を踏み割り、駆け出す。閃光と化した総司の体が大通りを走り抜け、ギュン、と飛んで家を一気に飛び越えた。その高速移動の最中、大通り以外でもそこかしこで、放り出された死体を見た。
着地した先は、小さな教会。女神と別れたあの大聖堂とは比べるべくもない、こじんまりとした教会の庭先で――――
総司は異形とまみえる。この惨劇を齎した元凶――――“魔獣”、そう呼ばれる存在と。
黒く、逆立つ毛に覆われた、総司の3倍はあろうかという体躯の持ち主は、総司を六つの赤い目で見つめた。カラスの頭に刺々しい毛を生やしたような醜悪な顔は、笑っているようにも見えた。
薄く開いた巨大な口から刃のような歯が見える。その歯には、まだ乾ききっていない血が見て取れた。
触れただけで刻まれそうな長く鋭い漆黒の爪が、その生き物の残虐性を体現しているかのようだ。
この存在が紛れもない人類の敵であると直感する。照り付けられる敵意が、総司の本能を刺激した。あの紫電の騎士と相対した時に感じた防衛本能ではなく、この怪物を打倒しなければならないという闘争の本能が目覚めた。
「よォ――――お前か、アレをやったのは」
言葉が通じるかどうか定かではなかった。
それでも、何か話していなければ、わずかに残った冷静さすらも冷静さを失いそうだった。
シエルダの住民には遂に「誰とも会えなかった」のだから、義理や恩があるわけではない。
だが人として、当然のように、冷静ではいられないのだ。幼子から老人に至るまで、目につく限り一人残らず殺し尽された、無残な街の光景を思い起こせばこそ――――総司の心は、憤激の念で覆い尽くされていく。
リバース・オーダーに手をかける。ここで、この存在だけは。
絶対に、殺さなければならない――――!
異形の存在が、ケタケタと、明らかに「笑い声」と取れる鳴き声を発した瞬間、総司の何かがプツンと切れた。
魔獣の爪が振り抜かれたのと、総司が剣を振り抜いたのとは、ほぼ同時だった。
結果は総司の勝ち。横薙ぎに振られた剣の一閃が、魔獣の爪を容易く切り落とす。
「楽に死ねると――――!」
魔獣は突然のことに動揺したのか、それとも獣の割に知能が高いのか、総司からわずかに距離を取った。
その一瞬を見逃さない。
「思うなよ!」
紫電の騎士には完敗した。手も足も出ずあしらわれた。
だが、あれは騎士が強すぎただけのこと。
そもそも、女神の騎士として鍛え上げられ、異世界の民として尋常ならざる力を手にした総司を、軽くあしらうということの方が特殊な例だ。
神速で間合いを詰めて容赦なく拳を叩き込む総司に、魔獣は一切反応できない。殴られたまま吹き飛ばされ、教会の外壁に激突する。
今のわずかな小競り合いで、獣は直感した。
この男には勝てない。生物の本能が逃げを選択させたらしい。
しかし、それは既に許されない。逃げ出そうと、崩れた壁の瓦礫から空中へ飛び出した魔獣よりも、更に上へ。
総司は既に、無双の剣の切っ先で、魔獣の体を捉えていた。
「どうした、この程度か」
ズン! と庭に衝撃が走る。
魔獣の背に上から剣を突き立てて、そのまま地面に串刺しにする。魔獣が耳障りな悲鳴を上げて、総司から逃れようともがくが、総司は気にも留めずに剣を引き抜いて、構えた。
「このまま苦しんでんのを見ててやろうかと思ったが、やめだ」
狙うは首。醜悪な頭と漆黒の体躯を繋ぐその場所へ――――
「再生されでもしたら、鬱陶しいからな」
迷いなく剣を振り抜く。凄まじい切れ味で、剣は一刀のもと、怪物の首を切り裂いた。
まだ体は痙攣していたが、間違いなく仕留めた。総司はまだもごもごと何事か鳴こうとしている頭を思いきり蹴り飛ばした。
衝撃で砕けた頭が、庭の木に当たって地面に落ちる。それきり、頭は動かなくなった。
紫電の騎士に敗北した後の、初めての戦闘――――間違いなく命のやり取りだったはずだが、その恐怖は微塵もなかった。怒りで我を忘れ、恐怖を感じる余裕すらなかった。
だが、終わってみればあっけなく――――ただひたすらに、空しかった。