別れ惜しむハルヴァンベント 第五話⑦ 女神が零した望みを手繰って
『良い考えでしょう? 自分に対する制御がうまくいかないなら、物体を制御すればいいのよ。これもコツのひとつね、覚えておきなさい』
「いや全然気乗りしねえけどな、サリアの槍を足蹴にするってのは!」
既に日の沈みかけた『果てのない海』を覆う空を、一条の光が駆け抜けていく。
神々しい槍をスケートボードのように乗り物代わりにして、重力を支配する“ラヴォージアス”を使って、凄まじい速度で彼は飛んでいた。
きっと待っているであろう相棒の元へ舞い戻るために。
『文句言うな。あなたが器用だったらやらなくて済んだことよ。自分の不甲斐なさを呪いなさい』
「辛辣! っていうかなんだ、ずっと一緒にいてくれるつもりか、ネフィアゾーラ!」
『馬鹿言わないで。私が助言しなきゃあなた、あの島で餓死するしかなかったでしょうが。誰も迎えになんか来ないんだから』
“ラヴォージアス”の力の源泉たるネフィアゾーラの声は、彼にしか聞こえていない。辛辣な口調に反して最初から最後まで律儀なかの“精霊”は、フォルタ島で目覚めたはいいもののにっちもさっちもいかない情けない彼のために出張ってきてくれたのだ。
『あなたが戻らないとセーレが悲しむから、ローグタリアに着くまでは見ていてあげる。ついでに“ラヴォージアス”を獲得したことも伝えてあげると良いわ。きっと喜ぶでしょう。私はとっても不愉快だけど』
「悪かったな! 言ったろ、俺だってこんなことになるとは思ってなかったよ!」
『まぁそうでしょうね。別に責めはしないわ。ただの愚痴。あぁほら制御が乱れてる。体は以前ほど強くないのよ。この速度で海に突っ込んだらぐちゃぐちゃになるわ』
「相変わらず難しい魔法だ……!」
『見えて来たわ。もう少し頑張りなさい』
ローグタリア沿岸に聳える『歯車の檻』の灯りが見える。
魔力の気配に敏感な彼は、視界にその姿を捉えると同時に気づいた。
「……出迎えてくれるらしい」
『あら、そうなの。あの子が既にこちらを見つけてくれているなら、もう心配はなさそうね。あなたが落っこちそうになったら飛んできてくれるでしょう』
「一言目になんて言えば良いかなぁ……」
『知らないわよそんなこと。じゃ、私はここまで。せいぜい帰り道でたくさん怒られると良いわ。あなたを心配してたヒトたちからね』
「はいはい……世話になったな」
ネフィアゾーラがすぐ近くにいる感覚がふわりと消える。彼は勢いそのまま、『果てのない海』を望む防壁の上へと突っ込んだ。
「よいしょぉ!!」
ズザン! と派手に着地する。ざあっと防壁の上を滑りながら、頭上へ弾いたサリアの槍をパシッと捕まえる。
上着を失った今の姿は、彼女と出会った時の彼そのもの。
剣の代わりに手にした槍は、驚くほど似合っていなかった。彼には過ぎたる伝説の名残。されど――――彼以外の誰も手にする資格のない、新たなる聖遺物。
そうやって懐かしくも新しい姿で舞い戻った彼を、相棒が出迎える。
「……久しぶりってほど、時間は空いたか?」
気の利かない問いかけだった。
彼女にとって数時間の空白がどれほど長く、そして苦痛に満ちたものだったかを推し量る器量のない、気配りのできない鈍感男の無様な台詞。
彼を良く知る相棒は、その無神経さに怒りもせず――――
問いかけを無視して、彼に飛びついて強く抱きしめた。
「っと……!」
「“ラヴォージアス”か」
リシアが静かに聞く。
舞い戻った総司が、静かに答える。
「そうだ」
「“ネガゼノス”も在るのだろう」
「……流石だな」
詳細を語るまでもなく。
不可逆の終わりを可逆にする、起こりえない奇跡の果てに総司が戻った「原因」を、リシアは既に見抜いていた。
長い旅路の中で何度も助けられた、時折恐ろしさすら覚えられてきた思考速度。現実の時間で言えばわずかばかり離れていただけなのに、総司は懐かしさを覚えていた。
「よく戻った」
「……怒らず聞いてほしいが……この結末を望んでいたかと言われれば、自信を持って頷けるわけじゃない」
「だろうな」
「何とも締まりのない終幕だ、って……お前からすればふざけんなってところだろうけど、正直にそう思ってしまっている自分もいる」
「腹立たしいがまあ、責めはしない」
「けど、何だろうな……我ながら現金だと思うが」
リシアを軽く引き離し、そっと頬に触れて、総司が情けない顔で笑った。
「お前とこうしてもう一度出会って、『やっぱ良かった』って心から嬉しいんだから、単純なもんだな全く! とりあえずただいま、だ!」
「ああ、お帰り。詳しく話を聞きたいところだが、ひとまずヴィクターのところへ行くぞ。世にも珍しいあの男の泣き顔が見られるかもしれん。その意味では――――不謹慎ながら、多少楽しみだ」
『キミですら消すことも叶わなかった、“異界の力と融合した神域の魔法”――――変質した“ローグタリア・リスティリオス”をも奪い取ったわけだ。同じく“異界の民の力”、スヴェン・ディージングが持つ破格の異能……“簒奪の権能”。なるほどガワの理屈はまあそういうことなんだろうけど』
“女神の領域”ハルヴァンベントは既に平穏を取り戻し、物音一つしない静寂の中、再びどことも知れないソラを漂う。
リスティリアの民が辿り着けない不可侵の領域に散歩の如く訪れたのは、“精霊”とも一線を画すレヴァンチェスカの「同位体」。すなわち、次元の具現・イルドクリス。柱の上に立って、虚空に向かって語り掛ける。
『そんな理屈で説明がつく事象でもないね。掟破りも良いところだ。第六の魔法を奪って行使して、自分の命と力を全て譲渡した……って言ってもあの時点でのスヴェンの命に、下界に戻る資格があったってのは、どうにも納得がいかないね』
言葉とは裏腹に、イルドクリスは楽しそうだった。
レヴァンチェスカがふわりと彼女の隣まで飛んできて、柱の縁に座った。
スヴェンが最期に語ったのは、恐らく本心だった。逆恨みに違いない彼の憎悪は結局消え去ることはなく、足掻いてみせたかったのは本音だっただろう。
しかし、彼が語った「彼自身」については、やはり主観的でしかなく、客観的視点が当然のように欠けていた。
結局のところ、多くの普遍的なヒトと同じように、どれだけ悪辣に染まろうとも根底にある善性を捨てきれなかった。
総司個人に対する情でもなく、リシア個人に対する情でもない。ひとえに――――己のしでかしたことで、若い芽を摘み、若い者を苦しめてしまったことへの、懺悔と後悔の念。
己の心残りを託す、いつかレヴァンチェスカを脅かす牙となる――――そんな建前で包装して、スヴェンは“簒奪の権能”を使い、総司の中に残り続けた“異界の民の権能”の亜種たる第六の魔法を奪って、行使した。
“女神の騎士”としての力を命と共に譲渡するはずの魔法は、代替案として“スヴェンが持っていた魔法”を総司に譲渡することとなり、スヴェンは既に尽きかけていた命を使い果たして、その場から跡形もなく消え失せた。
全てを見届けたレヴァンチェスカは、総司がローグタリアに帰還するのを見届けた後、イルドクリスが訪ねてきているのを悟って姿を見せたのだった。
『リシアに負けてほとんど死んでるようなもんだったんだから。死にゆく命が死にゆく命にとどめを刺して、奪って、そして渡して――――それで見事に復活するってのはどうなのって感じ。下界で言うと……出涸らしの茶葉で一杯目の美味しさ! みたいな感じかな?』
「どうでしょうね、あまり上手い例えとも思わないけど」
『ふふん?』
イルドクリスは楽しそうに面白そうに、レヴァンチェスカの顔を屈んで覗き込んだ。
アニムソルスとはまた違った視点から「ヒトを愛する」性質を持つ彼女が、確かに見て取った。レヴァンチェスカの憂いを秘めた横顔にわずかにちらつく、「ヒトのような何か」を。
『掟破りはスヴェンじゃないんだろ』
「誤解よ。私は“何もしていない”」
レヴァンチェスカが素っ気なく言った。イルドクリスの視線は外れなかった。
「ただ……」
『ただ?』
「あの瞬間、そうね、本当に少しだけ――――“望んでしまった”わ」
『……そう。ま、そのくらいなら良いんじゃないの。キミを罰せる存在なんて、リスティリアにいないんだしね』
イルドクリスは立ち上がって大きく伸びをした。実にヒトじみた所作である。
『何にせよ世界が終わらなくてよかったよ。まだまだ楽しみたいからね』
「私もそう思うわ。あまり特別扱いをしてはいけないのでしょうけど……これからどう生きていくのか、興味があるしね」
『良い傾向なんじゃない? でも程々にしとくことだね。百年足らずで“こんなこと”が繰り返されるなんてたまったものじゃない。距離感は大事だよ』
「ええ、気を付けるわ」
『わかってるならいい』
「……でもあなたに言われるのは癪ね」
『ボクは女神じゃないもんね。面倒ごとはキミの役目。引き続きよろしく~』
イルドクリスがけらけら笑いながら飛び去って行くのをジト目で見送る。わずかにため息をついた女神の口元には、小さな笑みが浮かんでいた。
「……さて。掛ける言葉を選んでおかないと。約束だものね」




