別れ惜しむハルヴァンベント 第四話④ 彼から彼女に/彼女から彼に
『思ってたより限界だったんだな、彼』
「黙れ」
ゼルレインの声が怒気をはらんだ。イルドクリスが首を振った。
『ごめんね、馬鹿にしたつもりはないよ。むしろ大したものだと感心してる。触れちゃいけないところに触れて、あれだけ保てるのは凄いことだ』
「……アイツの言ったこと、どこまで真実だ」
『ん? ん~……そうだね、ヒトの身で辿り着ける限界のトコまで辿り着いてるって感じ』
「わかるように喋れ」
『なんだよ、黙れって言ったり喋れって言ったり。まあいいけどさ』
イルドクリスは文句を垂れながらも、ゼルレインのために言葉を選んだ。
『実際、からかってるわけでもないんだ。言語での説明にも限界がある。“感覚的に理解する機能が備わっていない”生命が理解しようとしてはならない領域の話。可能性はごくわずかだけど、リスティリアにおいてその資格があるとすればエルフぐらいかな。私の知る限り、その次元の子は生まれていないとは思うけどね』
イルドクリスが言葉を選び、伝達できる限りの「真実」を口にしたものの、ゼルレインには完全な理解が出来なかった。ゼルレインで無理なら、恐らくヒトに類する者の大半は理解できない。哲学の先にある厳然たる「正答」であり、人類に辿り着けぬもの。
『言語化すれば“外来種”としか言いようがないんだろう。けれどそれもまた完全ではない。言うなればキミらの知るレヴァンチェスカは“芽生えなかったはずのモノ”。本来、“キミらに神などいなかった”のは事実だ。そういう意味では……ヒトの言葉では“外来種”、或いは異邦の者と称するのが最も近しいだろうね』
「……まあいい」
ゼルレインは早々に議論を切り上げ、再び始まった最終決戦へ意識を向けた。
スヴェンの魔力は絶大。最初の戦闘の時から破格ではあったが、今や彼の魔力は、「魔力量」だけで言えば一国のヒト全てを束ねたよりも強大だ。
千年前、その手でレナトゥーラを仕留め、“精霊”であるかの存在の力をいくらか簒奪したスヴェンは、“イラファスケス”だけでなくその先にいる力の源泉をすら一部取り込んだ。
怨嗟の熱を束ねる“イラファスケス”と、まさに怨嗟の化身とも言えるスヴェンには親和性があった。ただしあくまでも「過去形」である。
千年前、悲愴に沈むスヴェンをその目で見ていたからこそ、ゼルレインにはわかる。
今のスヴェンに、あの頃ほどの熱はない。
憎悪、悲愴、憤怒、怨嗟――――負の感情はヒトにとって強力な原動力だが、根本の性質に善性を抱えている者との相性は良くない。善なる者であっても負の感情の発露はエネルギー源として優秀だが、長続きしないのだ。
愛した者を取り戻すため、世界に牙を剥く凶行に挑んだ男。完遂の一歩手前まで進んだ最悪の反逆。だが――――ゼルレインは目を伏せる。
理屈に合わない。“あれほどの魔力があって一歩手前で止まった”のは何故か。
「私と同じだな」
呆れたように、ため息をつく。
「目がくらんだか、その眩さに――――」
怨嗟の蒼炎は津波の如く、“女神の領域”を蹂躙しながらリシアへと押し寄せる。畳みかけるように襲い来る“ネガゼノス”の赤い閃光もまた、一撃一撃が必殺のそれ。触れれば生命のほとんどが容易く消し飛ぶ殺戮の大波。
ヒトによる魔法行使の域を超え、災害のように畳みかけるスヴェンだが、思考はヒトのそれだ。世界を滅ぼして余りある力を持つ者が、そう易々と捉え切れない機動力を有するリシアを「面」で押し潰そうとする小賢しさをも備えている。力押しのように見えて、スヴェンはあくまでも本気で、リシアを倒すため最も的確な手を打とうと画策している。
むしろ力押しはリシアの方だ。
「ハッ!!」
押し寄せる怨嗟の波を、剣の一振りで消し飛ばす。
総司が得意としていた飛ぶ斬撃。覚醒した本気のリシアが再現しようとするそれもまた、もはや災害。斬撃を飛ばしているというよりは、剣の一振りで嵐を起こしていると言った方が表現としては的確かもしれない。
スヴェンがくるんと槍を回した。
空間転移の魔法もかくやというほど一瞬で自分のすぐそばまで迫ったリシアの進路を、見事に読み切る。
迷いなく首を狙うレヴァンクロスの一閃を、槍の穂先で鮮やかに受け止める。
「“レヴァジーア・ラヴォージアス”」
続けざまにスヴェンは、槍から剣へ伝うように“ラヴォージアス”による重圧を仕掛ける。が、すぐに険しく眉をひそめて舌打ちした。
魔法の“通り”が悪い。少し前にリシアが指摘した通り、今の彼女の膂力を抑え込もうと思えばピンポイントで捕まえる必要があるが、露骨に仕掛けたのではリシアの速度を捉えられない。それ故に斬り合いの最中、接触した武具を通じて確実に“ラヴォージアス”の重力圏へ引き込もうとしたのだが、満足に作用していない。無力化されているわけではないが、リシアを捕まえきれるだけの威力が発揮されない。
スヴェンの仕掛けを見越してレヴァンクロスで斬り込んだ。超高速で駆け巡るリシアを捕らえられる機会があればスヴェンが逃しはしない。つばぜり合いになればそれをチャンスと見て、すぐさま弾くことはせず“ラヴォージアス”でリシアを捕らえにかかるはず――――その心の動きを読み切ってレヴァンクロスを振るった。魔力を削り取る性質を有するレヴァンクロスであれば、スヴェンの見立てよりも魔法の効力が小さくなると読んで。
人外の速度を誇るリシアに、肉薄するまで接近を許したうえで、わずかな隙まで晒す結果になった。
スヴェンがリシアを弾き飛ばす前に、リシアが振るう剣が――――総司の剣リバース・オーダーがスヴェンの体を捉えた。
肉体の強度もヒトの身を越えているスヴェンではあるが、相対するリシアの膂力もまた常識外のそれである。
かわしきれず、スヴェンの左腕、肘から先が斬り飛ばされ、吹き飛ぶ。
腕の切り口から怨嗟の蒼炎が溢れてうねりをあげ、リシアの体を巻き込んで大きく膨らみ、弾けた。広範囲の爆発がリシアを巻き込んだが、リシアは蒼銀の魔力で身を護りながら空中へと高く逃れていく。
「あー全く、ふざけやがって」
怨嗟の蒼炎をかき集め、左腕に収束させる。言うなればもうほとんど「ガワだけ」になってしまった「スヴェン・ディージング」の肌は剥がれ落ちてしまったが、黒々とした腕が再生した。
「凡人が持つからギリギリ許されてたんだよ、その力は……! しかもあの“精霊”――――」
素の力も、預かった力も、思考力も一級品。スヴェンにとって、総司によるリシアへの力の譲渡は想定外であり、最悪の一手だ。
想定外は重なる。悪いことは重なる。
出力が上がらない。“イラファスケス”も“ネガゼノス”もかつてないほどの力を発揮しているのに、“ラヴォージアス”だけが満足に機能していない。
リシアを捉え切れないのは、彼女の速さによって仕掛け方が限定されるという一因だけではない。
莫大な魔力量とそれに耐えきれる人外の体があれば、“女神の領域”の全域へ向けて“ラヴォージアス”を放ち、リシアの動きを数秒以上止めることは不可能ではないはずだった。それだけの力があるにもかかわらず、魔法の出力が上がり切らず、小細工程度にしか使えなくなっている。
“伝承魔法”とは、下界の理の外で揺蕩う“精霊”の力を行使するもの。女神に対しても生命に対しても攻撃的なリベラゼリアの力や、疑似的だったとはいえ源泉たる“精霊”そのものを取り込んだレナトゥーラの力は何の問題もないが――――
抵抗している。下界最強格の魔法を司る“精霊”ネフィアゾーラが、血筋のルールを無視するスヴェンの“簒奪の権能”に抗っている。
「無駄話が過ぎた――――干渉する時間を与えちまったか……!」
スヴェンとリシアの最初の激突時点では間に合っていなかったはずだが、イルドクリスによればネフィアゾーラは、総司がレヴィアトールに連れ去られた時も介入しようとするぐらい、“最後の戦い”に挑む二人を気に掛けていたのである。イルドクリスの出現によってかの“精霊”は総司たちを見失ってしまっていたようだが、もしかしたらスヴェンが女神の神体へ遂に攻撃を仕掛けたことにより、事態を把握したのかもしれない。
いずれにせよこれもまた想定外。ネフィアゾーラが“精霊”の中でも特に総司とリシアに対して好意的であったのはスヴェンも知っていたが、“簒奪の権能”に抗うということまで達成するとは思っていなかった。
「“アポリオール”――――!」
「チッ……!」
彼方へ吹き飛ばされたリシアが魔力を収束し始めた。スヴェンが槍を向けて応戦する。
「“ゼファルス”!!」
「“レヴァジーア・ネガゼノス”!」
余計な思考が準備の時間を奪った。
咄嗟に放った“ネガゼノス”の赤い閃光が、瞬く間に黄金の奔流に押し潰されていく。ギリギリで回避したスヴェンだったが、リシアの本命が今の魔法にないことは理解している。彼女の強みはあくまでも、“女神の騎士”として覚醒した上での“ジラルディウス”。つまり――――
「おおおおおお!!」
雄々しく叫んで正面から突っ込んでくるリシアを受け止める。全身を貫く衝撃。変質した槍がレヴァンクロスとのつばぜり合いに持ち込まれ、押される。
魔力による膂力の強化は、スヴェンの方が上回っているはずだった。それだけの魔力を内包している。だがリシアには“女神の騎士”としての膂力だけでなく、光機の天翼による物理的な推進力がある。
何とかリシアを弾いて、“レゼリアス”による転移を駆使して距離を取る。
リシアは最初、スヴェンの手札の多さを警戒していたのだが、既にその警戒は無用のものと切り捨てている。
そもそも“ネガゼノス”と“ラヴォージアス”は最強クラスの魔法であり、“イラファスケス”もまたスヴェンとの相性が未だ悪くない、強力な魔法だ。その三つで何とか押し合えるような相手に他の魔法を使う意味はない。多少カラーの違う戦闘ができるからと言って、リシアを相手取ってそれに大きな意味があるわけでもない。
冷静になり、あらゆる決意を固めきったリシアにはもうそれが読めている。
そのうえで、リシアは知る由もないことだが、スヴェンにとって命綱となっている三つの魔法のうちの一つ、“ラヴォージアス”は機能不全に陥っている。
「さあ――――」
そして、距離にも意味はない。リシアの速度では、“女神の領域”は狭すぎる。
リシアの目がスヴェンの行く先を的確に捉えた。“レゼリアス”による転移は影を起点としている。ミスティルが操る“ディスタジアス”の劣化型であり、彼女のような自由自在の移動はできない。
スヴェンの魔力量も弱点となっていた。隠すことのできない膨大な魔力が移動する先が、目で追う必要もないほど正確にわかる。
迎え撃つ準備をする時間を消した。防戦すら許さず一時的な逃げに追い込んだ。つまり機は熟した。
「終わらせるぞ、スヴェン!」
振りかざすはリバース・オーダー。
再臨者の剣、世界救済を達成するための無双の神剣。かの剣の存在意義は武具としての性能にあらず、その役目はただ一つ。
女神が救世主に与えた魔法の鍵であり礎。“最後の敵”を滅ぼすのは、“女神の騎士”最初の魔法。
「塔」と化した柱の一つに躍り出たスヴェンへと、リシアの殺意が向けられた。
蒼銀の魔力が黄金を帯び、魔法陣を幾重にも展開する。不発に終わったあの魔法が再び――――
「そうだな、仕込みは終わりだ」
スヴェンが冷酷に言って、リシアに向かって指をパチンと鳴らした。
「間に合って良かったぜ――――“カルネイズ・イラファスケス”」
リシアの全身を灼熱に巻かれたような痛みが襲う。肘のあたりから、太もものあたりから、リシアの肌が青黒く侵食されていく。怨嗟の炎が火傷を負わせ、それらがリシアの体に広がっていく。
「あ、がっ……!」
レナトゥーラが使おうとして使うことをやめた、“イラファスケス”の中でも最悪の魔法。
怨嗟の蒼炎を受けたことのある相手を侵食し、対象の命を問答無用で奪って奴隷へと作り変える、この世の最悪を詰め込んだような魔法。共に戦ったネヴィーが一番警戒していた魔法だ。
蒼銀の魔力で身を護っていたリシアだったが、全てを防ぎ切れていたわけではなかった。スヴェンの高すぎる魔力と、人外と化した体そのものから溢れた蒼炎が、“女神の騎士”の耐久力を越えてわずかな傷を負わせた。
そのわずかばかりの火傷で十分。確実な勝利を得るために、スヴェンは最悪の魔法を躊躇いなく使った。
そうしなければ、勝てないからだ。
動きを止めたリシアを、怨嗟の蒼炎が取り囲む。焼け焦げた奴隷を支配下に置く必要はない。抵抗できなくなった焼死体を消し炭にして終わり。それだけのことだ。
「恨むなよ」
スヴェンがふーっと息を吐きながら、静かに言った。
「お前に剣を収めてほしかったのは嘘じゃないんだ。だが今のお前相手じゃあ、こっちも余裕が――――」
地味な決着かもしれない。けれど、これでようやく終わる。過去と未来を賭けた戦いは、過去に囚われた男に軍配が上がり、リスティリアはその未来を閉ざす。
やっとのことで目的の達成に王手をかけた喜ばしさと、若者の希望を潰す虚しさが入り混じる何とも言えない勝利の余韻に浸ろうとして、スヴェンは嗅ぎ付けた。
嗅ぎ付けてしまった。
自らがほとんど支配し切っているこの空間にあって、もう吹くこともない風が吹いて。
頬を撫でる穏やかな風の中に、千年来忘れかけていた懐かしい香りが混じっているのを、確かに――――
「あぁ……そうだ、忘れてた。千年も」
スヴェンの口元には笑みが浮かんでいた。
「怒ったら一番怖いのはあんただったな、エルマ――――」
“オリジン”の管理はリシアの役目だった。総司から全幅の信頼を以て、秘宝の保管を任されていた。
“ハルヴァンベント”への道に踏み込んでからも、付いてきてくれた“オリジン”があった。
リシアの剣として旅路を支えてくれた“レヴァンクロス”、そして――――
ルディラントの秘宝、海風の結晶“レヴァンシェザリア”の優しい輝きが、リシアの右目を優しく包んだ。
全身が焼けただれるような耐えがたい苦痛の中で、リシアはその優しい光を知覚し、懐かしい海風の香りに包まれるのを感じ取った。
ギリギリのところで残った思考力が、海風の香りと共にリシアへ理解を与える。脳裏をよぎる思い出、総司のみならずリシアの魂にも刻まれた、王の宣言。
何をすべきか、考えずともわかった。
――――我らルディラントが確かにこの世界にあった証を受け継ぐ者が“二人”もいる! ルディラントの誇りと魂を受け継ぐ者が、ここにいる!――――
「“ルディラント・リスティリオス”!!」
誇り高き国が救世主に与えた無敵の護り。総司と対になるように、リシアの右目に時計の文字盤のような紋様が浮かんだ。
白の強い虹の光が、リシアを中心に広がっていく。全身を包む灼熱の痛みが消え、背に負った“ジラルディウス”の翼も掻き消えていく。リシアにとどめを刺そうと周囲に集まっていた怨嗟の蒼炎も全て、無敵の輝きの前に消し飛んだ。
第二の魔法は、総司から譲渡された力の中には含まれていなかった。
リシアには最初からその資格があっただけ。王ランセムは総司に、王妃エルマはリシアに、千年来続いた仮初の生命の終わり際、最後の言葉を授けた。
預けられたのは総司だけではなかった。資格を有するリシアが“女神の騎士”として覚醒したことで、資格のみならず形を得た力。“救世主”のための護り。そして――――ルディラントが“最後の敵”へ送る晩鐘。
リシアのそれは総司の左目を上回った。上位存在である“精霊”の力に対しては、抵抗を示すものの完全な無力化まではできていなかったが、リシアの手に渡って真に完成を見た“女神の騎士”の力がその序列を覆した。
脱力したスヴェンの眼前に、蒼銀の魔法陣が迫る。
幾重にも連なった魔法陣の先、即座に“ジラルディウス”を再展開したリシアが剣を構えている。
海風の香りがスヴェンの自由を奪っていた。呆けた頭が回避の選択を思慮の外へ押しやっていた。彼がもっと研ぎ澄まして瞬時に動いていれば、かわすのは不可能ではなかったかもしれないが――――
軽やかに槍を回し、スヴェンはわずかに迎え撃つ姿勢を取った。
形だけの所作。もろ手を広げて受け入れてしまえば、優しすぎる彼女が躊躇いかねないと踏んで。
「“シルヴェリア・リスティリオス”!!」
始まりの魔法を高らかに叫ぶ。
蒼銀に混じる黄金、連鎖する爆裂。“ネガゼノス”の赫雷が彼女の進路へ放たれたが、もはや何の意味もない。
光機の天翼が空を切り裂き、剣を突き出したリシアが爆裂の中を突き進んで――――
――――そうなることで初めてお前さんの剣は、最後の敵の心臓に届くだろう――――
総司の剣が、スヴェンの胸元をまっすぐに貫いた。
蒼銀の光は留まるところを知らず、リシアとスヴェンを飲み込んでいく。
その最中――――リシアの肩を、スヴェンの黒い手が掴んだ。リシアがハッと目を見張った。
「ま、もうちょい付き合え」
二人を飲み込む光の余波は、次元の壁を隔てて「同じ場所にはいないはずの」ゼルレインの元まで届いていた。
「チッ――――気づいていたなあの馬鹿……! いや違う、アイツだけで“これ”ができるわけがない……!」
ゼルレインがイルドクリスを睨んだ。イルドクリスは軽い調子で舌を出して、
『そりゃキミも行かなきゃダメに決まってんじゃん。言ったろ、最後まで見届ける義務があるんだって。じゃあねゼルレイン、よい旅を!』
「ッ……まあ、そうだな」
光に飲み込まれる直前、イルドクリスの目には、ゼルレインが笑ったように見えた。
「感謝しておく。さらばだ」
『お疲れさま』
蒼銀と黄金の光が、“女神の領域”の全てを包み込んだ。