別れ惜しむハルヴァンベント 第四話③ 狂い切って、疲れ切って
ソラに留まる「それ」を、リシアはしっかりと目視して、観察して、理解しようとしていた。「それ」が一体何なのか。
巨大な「女性の姿をした彫像」だった。あくまでも、何とかして形容しようとするならば、その表現が的確だ。
母性と神秘性を内包した女性の姿。リシアが見た「少女」の姿よりも遥かに大人びた、しかし一目でわかる“女神レヴァンチェスカ”の彫像だ。胸元に深々と“ネガゼノス”の槍が突き刺さっていることを除けば、芸術的な作品として最高峰の完成度を誇る。
だが――――神々しさをはっきりと感じるのに、リシアにはそれが「美しい」とは思えなかった。
下半身がヒトの形をしていなかった。まさにこの部分こそ、「形容しがたい」見た目、謎めいた箇所。
無理やり例えるなら海生生物のいずれか、だろうか。水底を這う正体不明の海生生物。方々に伸びる触手のような何かも相まって、薄気味悪い感覚すら覚える。少なくとも「女神」と思しきそれに対して覚えるべきではない感覚だ。総司に形容させれば、最も近しい形状として「エビの身を開いたような」と表現するだろう。
その様は、一言で言えば――――
「“おぞましい”だろう」
スヴェンの表現が最も的確だったが、しかしそれだけではない。
この感覚には覚えがある。そう遠い昔ではない。リシアは似た感覚を味わったことがある。
「あれがレヴァンチェスカの『神体』。わかりやすく言えば『本体』。世界の核、リスティリアにおける万物の根源。千年かけてアイツの領域を侵食したおかげで、ようやく“ネガゼノス”が届いたが――――」
忌々しそうに彫像のような物体を見上げて、スヴェンが吐き捨てる。
「どうやらまだ息の根を止めるには至っていないらしい。時間の問題とは言え……間に合って良かったな、リシア。少なくともまだ終わりじゃあないらしい」
「わかっていたことではあるが……下界でお目に掛かったあの姿は分身か」
「そうだな、間違ってはいないが、もう少し正確性を持たせるなら『端末』ってところか」
スヴェンは微笑みながら続けた。ひょいひょいと軽い足取りで、最初に陣取っていた階段の上に戻って行く。遠のいていくのに、声はすぐ近くに聞こえた。
「『本体』じゃないのはわかっていただろうが、まさか“こんなもの”が女神だとは思わなかっただろ」
リシアが“ジラルディウス”を再度展開し、スヴェンを追いかける。
「そう構えるなよ。座って話し込んでも良いぐらいに思ってるのに」
「ふざけるな」
辛辣な声で言うリシアだったが、いくらか勢いは削がれていた。
「世界の核」、女神レヴァンチェスカの神体。下界で知られる伝承や伝説の一端にすら登場することのない、世界の神秘の最奥。そんな存在を前にして驚きを隠せなかったというのもあるが――――
何より様変わりしたスヴェンの雰囲気にあてられている。顔の皮膚の一部がはがれ、怨嗟の情念に冒された黒紫の「内皮」がむき出しになっているところも見受けられた。
正気を失うまでには至っていなかったが、それでも千年。
たった一人、“女神の領域”で憎悪を燃やし続けた狂人。理性があるだけ見事と言える。彼の精神は既に壊れかけていて、それゆえの狂気的な何かが垣間見え始めていた。
「世界の起源、生命の起源とは何か。どこから生じるものか。お前たちリスティリアの民には答えがある。“全てはレヴァンチェスカから生じた”と。だが俺やアイツのいた世界では哲学的な……答えのない問いでな。その神秘に関する議論は尽きることがない」
バキン、と嫌な音がした。スヴェンの皮膚の一部に、更に亀裂が走っていた。
「さて、そんな俺達の哲学をリスティリアに持ち込んでみると、もう一歩踏み込んだ問いができるわけだ。さあリシア、お前の考えを聞かせてくれ。『では全ての源たるレヴァンチェスカは、どのように生じたものなのか』」
左目の眼光が変わっている。濃密な怨嗟の魔力の向こう側に、“ネガゼノス”の色とも違う不可思議な黄金が、不気味な金色が宿っている。
その変容に警戒を示しつつも、リシアは冷静に言葉を返した。
「……ソウシの話から察するに、お前たちの世界は技術も学問も、リスティリアより進んでいるであろうことはわかる。だがその問いの答えは同じだ。議論は尽きず、答えなど出ない」
「そうだな、似たような議論に終結するだろうが……俺達の世界よりも一歩踏み込めるのさ。レヴァンチェスカを見たお前の反応でな」
リシアが目を細め、スヴェンの表情を観察する。
ギリギリのところで正気を保っているように見えるが――――既に常人ならざる何かに変貌したスヴェンは、リシアには見えないものが見えている。或いは、普通のヒトでは知覚しようのない何かを知覚できている。
神体の胸に突き刺さるあの一撃を実現するため、千年、“女神の領域”を――――世界の核を侵食し続けた男。
「何に触れた。答えろ。お前はスヴェン・ディージングか」
「心配するな。見立て通り多少変質しているが、俺はスヴェンだ。今もまだ」
微笑すら浮かべ、スヴェンが頷く。祭壇の跡地にも見える中途半端な階段の上と下。言葉を交わす二人を邪魔する者はいない。
「俺がこの場所に踏み込み、レヴァンチェスカの領域を冒し――――遂に届き得る段階になって、リスティリアの民は皆知覚し始めた。漠然とした不安……レヴァンチェスカに危機が迫っているという、言いようのない焦燥感。お前たちとレヴァンチェスカの、朧げながら確かな繋がりを示すものだ」
「既知の事実だ」
「レヴァンチェスカはお前たちにとって敬愛の対象であり、崇拝の対象。しかしお前はアレを見た時に感じたはずだ。言いようのない薄気味悪さを。おぞましさを」
「否定はしない」
リシアは変わらず、極めて冷静だった。スヴェンは満足そうに微笑んでいた。
「それが何だというんだ」
「おぞましいとすら感じるのは、アレがお前の理解の外にあるからだ」
異様な姿の神体を見上げて、スヴェンが忌々しそうに言った。
「最初に言ったよな。“こっち”に来るまでのお前らのことは――――まあ全部ではないが、見てたって。俺は覚えてるぜ。んで、お前も覚えてる。そうだろ?」
リシアは少し躊躇ったが、言った。
「……シルーセンで戦った存在と向き合った時と、同じ感覚だ」
「“異界召喚術”によって顕現し、こちらの“精霊”と混ざって変質したあの異形と同じ気配。そうだな?」
シルーセンの村にて異形の化け物と戦い、勝利を収めた後。ネフィアゾーラによってセーレに齎されたその情報を、リシアも聞いていた。
後になって、シルーセンの村で行われていた悪辣な儀式に“異界召喚術”を混ぜ込み、かの異形を創り上げたのはアニムソルステリオスだとわかったが――――
見るだけで嫌悪感をもよおすあの異形と似た感覚を、こともあろうに「女神」の本体に対して覚えるという事実は、リシアにとって受け入れがたいことだ。いくらリシアが、他のリスティリアの民に比べれば――――諸般の事情により多少、女神への敬愛の念が薄れているとは言っても。
「これは俺個人の勝手な推測に過ぎないが」
スヴェンはぴっと神体を指さして、言った。
「“アレ”はこの世界に“元々あったものじゃない”。どれほど過去のことかは知らないが――――この世界の“外側”からやってきて世界の核に寄生した“外来種”。俺が今レヴァンチェスカを侵略しているように、レヴァンチェスカもまた、スティーリアと呼ばれる前のこの世界を侵略した余所者だ」
険しくはなったものの、リシアの表情に大きな変化はなかった。
「外来種であり理解の及ばない存在……理解できないものは怖い。理解できないものはおぞましい。ヒトとして当然の感情だ」
「……しかしそれでは、お前が言った話と矛盾する」
「と言うと?」
「今のお前の話と、私の“ゼファルス”の成立について、お前の想定が正しいのなら……“ゼファルス”に対して、女神さまのご神体やシルーセンの化け物と同じように、皆がおぞましさとやらを感じなければおかしい。そのような反応は今までされたことがない」
「そりゃあ、害意がないからだろうな。同じ“外側”からやってきた存在だとしても」
スヴェンが何でもないような口ぶりで言った。
「弱いな、論拠が」
リシアが一蹴した。
「ヒトの身を逸脱し、永らくこの場所に構えていたお前には、きっと私には見えないものが見えているし、知覚できているのだろうが……だからお前の言う仮説は、私が思うよりもお前にとってずっと確度の高いものなのだろうが……しかし、それで納得できるのは恐らくお前だけだ。私にはお前のことも理解してやれそうにない」
「そうか、残念だ」
感覚的な部分で、リシアとスヴェンでは理解し合えない。スヴェンは恐らくリスティリア史上初めて、この世界の中枢に、世界の真実に最も深く踏み込んだ存在だ。
彼の言葉には、リシアの主観的な思考からすれば矛盾がある。レヴァンチェスカが彼の言う通り外来種だったとして、遥か昔に世界の核として成立したのなら、そこから連綿と続く生命の営みの先にいるリシアは既に「レヴァンチェスカの侵略」以後の生命だ。
“世界の核”だの、それを侵略するだの、スケールの違い過ぎる話で、ヒトの思考の限界を超えた話。事実として実際にあったことだったとして、ヒトの身で受け入れようとするには空想に近い。というより、理解しようとすること自体が無意味。生命がどこからきてどこへ行くのか。世界の発生の原初はどのような形態であったのか。スヴェンが最初に語ったように、あれやこれやと想像を楽しむだけのもの。
それでも頑張って想いを馳せてみるとしても――――レヴァンチェスカの侵略“以前”の生命が外来種に対し嫌悪感を覚えるのはあり得ない話でもないかもしれないが、“以後”の生命は世界の核がレヴァンチェスカであることが当たり前の状態で成立しているはずである。外来種として排斥的な感覚を持つのは不自然に思える。
きっとスヴェンはそれに対しても違和感なく受け入れられる答えを知覚しているのだろうが、リシアに伝えきれていない。ステージが違う。スヴェンは一段高いところにいる。しかしそれは決して進化したわけではない。ヒトの常識の範疇で表現するとすればそれはもう、「狂ってしまっている」だけなのだ。
「全て理解はできない。だが納得できる部分はある。その“狂気”に辿り着いたのは恐らく、お前が初めてではないだろうから」
「“狂気”……やっぱそうか。俺は、狂っちまってるか」
「ああ。ロアダークと同じようにな」
根本的な理解は及ばないが、下界で見聞きしてきた事実と、それに伴うリシアの仮説が補強される話ではあった。
「“世界”と“女神”を切り離すため、ロアダークは各国の“聖域”の破壊を目論んだ。お前と同じ領域に踏み込んでしまっていたのではないか? 外来種に“核”とやらを握られた世界からの脱却……いや、そんなことが可能だったのかまでは、私にはわからないが……だとすれば――――」
感じ取れる気配から、レナトゥーラを殺したことによって取り込んだ力が、スヴェンをヒトならざる何かへ変貌させているのがわかる。だが、根本的な部分で彼の精神に影響を与えているのは――――
「“ネガゼノス”の覚醒に至った者が行き着く先……ってか?」
「ッ……」
その言葉を口にしたくはなかった。リシアは唇を真一文字に結んで言葉を飲み込んでいたのだが、スヴェンに引き取られてしまった。
リシアが言えなかったのは、友人であるベル・スティンゴルドの存在があるからだ。だが思い返してみれば――――総司とリシアが出会い、図らずも敵対することとなってきた相手の中で、唯一。
事情は彼女なりのものがあったとはいえ、女神に対し害を為そうと目論んだ存在。
レナトゥーラを力の源泉とする“イラファスケス”にも、形は違うが似たような性質があった。その魔法の才能に富んだ者ほど、その魔法の性質に引っ張られて精神が蝕まれる。千年前の大賢者レナトリアも、今代の継承者アルマも、“伝承魔法”継承者としての才能があったばかりに魔法の性質そのものに囚われた。
ロアダーク、スヴェン、ベル。三人に共通するのは、全員が“ネガゼノス”の覚醒者だということ。
“ネガゼノス”に“イラファスケス”と同じような厄介な性質があり、異世界の人間としての特権により“ネガゼノス”を簒奪したスヴェンも、覚醒した継承者の一人としてその運命から逃れられないのだとすれば。
そしてこの場所、世界の中枢たる“ハルヴァンベント”において世界の核に触れ、いよいよ狂ってしまったのならば。
彼は、もう――――
「お前の言う通りかもな。狂い切っているのかもしれん。これが“ネガゼノス”によるものか、千年の時間によるものなのか、俺にはもうわからん。悪かったな、つまらない話に付き合わせた。聞きたいことは、一つだけだ」
スヴェンはもう一度レヴァンチェスカの神体を指で示し、リシアに問いかけた。
「あんなものを護るために、お前はまだ戦うか」
「無意味な問いだ」
“ジラルディウス”に魔力が走る。剣を二振り構え、リシアがすぐに臨戦態勢に入った。
「興味深い話ではあった。なるほど、“座って話し込む”のも魅力的な提案だ。が――――私のやることは、変わらない」
蒼銀と黄金が再び拡散する。決意に迷いはない。むしろ、以前よりもいっそう強い覚悟の輝きがある。
飄々とした、ルディラントで見たままのスヴェンだと思っていた。しかし違った。“ネガゼノス”によるものだけではない。恐らくは――――根本から悪であるばかりの彼ではないから、千年と言う長い時間の中で葛藤もあったはずだ。
既に彼の精神は崩壊しかけていて、まともに話が出来ていたのが不思議なくらいだった。ギリギリのところで保っていたに過ぎなかった。
総司の願いを代わりに叶えるため、そして――――スヴェンを、解放してやるためにも。
「女神さまがどんな存在であったとて、私が望むのは“リスティリア”だ。興味深いお前の話の“続き”は、あとでご本人に直接お聞かせ願うことにする。お前を斬ったその後でな」
「お前が望む“リスティリア”は……そこで営まれる全ては、どこから来たのかもわからない外来種の“代謝”に過ぎないとしても?」
「……お前の“そういう思考”はもう、私の理解が及ぶところにないよ」
リシアが悲しそうに言う。話せば話すほど、乖離する。
終わらせてやってくれ。「一度死ぬ」前にゼルレインに言われた言葉が脳裏をよぎる。彼女の言葉に従う義理など、正直なところ「殺された身」としてはないのだが――――
ゼルレインがどこまでスヴェンの状態を把握していたのかはわからないが、リシアも同じ気持ちになってしまった。
総司が命を投げ出す遠因の一つである彼を憎む気持ちは薄れ、スヴェンのためにもこの戦いを終わらせたいという気持ちが強くなった。
「叶うなら抵抗してくれない方が――――早く楽にしてやれるんだがな」
「……ま、無理な相談だな」
スヴェンがひょいと肩を竦めた。
その所作と、表情と、声色は。
リシアがイメージしていた通りの、いつも通りの彼そのものだった。
スヴェンがバチン、と自分の頬を叩いた。その衝撃で顔や首筋に走る亀裂がいくらか広がったように見えたが、本人は気にしていない様子だった。
「よぉし、そんじゃ、まあ――――最終決戦、仕切り直しだ! やろうか!」