別れ惜しむハルヴァンベント 第三話② 最終決戦 開幕
スヴェンが新品の葉巻をピン、と指で弾いて、リシアの方へと飛ばした。リシアは総司の剣を持たない左手でそれを受け取った。
「新品としちゃあ最後の一本だ。火はいるか?」
「不要だ」
最低限の礼儀として、リシアはそのまま捨てることなく上着のポケットに葉巻をしまった。スヴェンがどさっと階段に腰を下ろし、深く煙を吐き出す間も、リシアの表情に変化はなかった。
涙の跡を残す瞳の奥に、燃え滾るような昏い何かがうごめいている。彼女の今の状態に覚えがあるスヴェンは感慨深そうだった。
「カトレアを介錯してやったのは、どっちだ」
「ソウシが斬った」
「そうか。ありがとな」
スヴェンが薄く微笑みながら言う。
「千年前、アイツが“付いてくる”なんて言い出した時に、俺がちゃんと殺しておくべきだった」
「……見たよ。嫌な言い方をされていたな。カトレアを殺せば、サリアと同じ力が手に入ると」
「ハハッ、そうか見たか。そーそー、小賢しい物言いだぜ。あの頃の俺はブチギレてたもんでな。アイツが喚くだけなら躊躇わなかったはずなんだが……“ほんの少しばかり時間を置いて”みりゃ、その方がよほど正解だった。結局、カトレアは囚われたままだった」
「正解なはずがあるものか」
表情は変わらなかったが、リシアの口調は辛辣さを帯びた。
「“止まるべき”だったに決まっているだろう。その時に」
「おっ」
スヴェンが目を丸くした。
「手厳しいね」
「わずかでも私が気遣うことを期待したか? だとすれば勘違いも甚だしいな」
蒼銀の魔力がバチバチと、危険なきらめきを見せた。
「私が今どれほど“お前”を殺したいか、お前ならわかってくれると思ったが」
「……あぁ、痛いほどよくわかるさ」
スヴェンが軽く肩を竦め、どうどうと手を挙げた。
「まあ待て、どうせやり合うんだ。そう急ぐなよ、ようやく会えたんだ」
リシアの目が細く鋭く、スヴェンの笑顔を射抜く。
“女神の騎士”を継ぐまでは、リシアとて、スヴェンと話したいことがあったのは事実だ。凶行に及んだ彼の心境を、千年前の細かな動きを、結局何がしたいのかを彼に問いただしたかった。必要なことだと感じていたし、リシア個人の興味、知的好奇心のためにも、スヴェン・ディージングと再び言葉を交わせるこの瞬間を心から望んでいた。
しかしそれは「総司も一緒に」というのが大前提だった。誰よりも総司が、スヴェンの言葉を聞きたかっただろう。辛い場面には違いないが、リシアはある意味ではその未来を望んでいた。
スヴェンとの再会、そして彼の想いを聞く場面は、ある意味では総司にとっての報酬でもあったはずなのだ。
少なくとも、リシアが見たかったのは「総司が救世の旅路を完遂する」瞬間。
彼の旅路を、彼が紡いできた物語の結末を――――もっと幸せで価値ある結末を、間近で見届けたかった。
決して「自分が世界を救う英雄になること」を望んでいなかった。
憧れの男を斬り、世界を救う結末は、単なるハッピーエンドではないかもしれないが、世界救済の栄誉を受け取るべきは一ノ瀬総司だ。
「ま、全部知ってるお前に何を話すんだって思うかもしれねえが。俺としてもヒトとの会話は久しぶりでな」
「……千年か。想像も出来んな」
リシアがぽつりと言った。スヴェンは声を上げて笑った。
「そりゃそうだ。もう俺も時間感覚なんてなくなっちまってる。思えば長いこと粘ったもんだ。しかもこんだけ粘ってレヴァンチェスカの切り札が間に合っちまうってんだから、つくづく忌々しいぜ、この世界の運命ってやつはよ」
唐突に、スヴェンから凄まじい魔力が迸った。
明らかな“ネガゼノス”の気配だった。赤と黒の閃光が迸って、刺すような魔力がリシアの頬に焼き付くように届いたが――――リシアはぎらりとスヴェンを睨みつけたまま、微動だにしなかった。
「ハッ」
スヴェンが笑う。
「“真実の聖域”で膝ついてた女とは思えねえな。随分と見違えた」
赤と黒に呼応するように、蒼銀の魔力を漲らせてリシアが淡々と言った。
「私ではなくソウシの力だ」
「お前だってわかってんだろ」
スヴェンが下らなさそうに言って、葉巻の煙を吐き出した。
「“もともとこういう予定だった”んだよ。お前が俺の前に立つこの瞬間こそレヴァンチェスカの筋書きだ。むしろお前の話が聞きたいね。教えてくれよ。この結末のために歩み続けて、辿り着いた感想を」
「話すつもりがないのならそう言え」
リシアの声が危うさを帯びて暗く沈んだ。明確な殺意が無表情なリシアから放たれているが、スヴェンは涼しい顔だ。
「“女神の騎士”に選定できるのは異界の民だけなんだろうな。詳しいことは知らねえけど。だが合理性だけで言えば、そりゃあ“元々強い力を持ったリスティリアの民”――――稀有な魔法を使える生粋の戦士にその力を渡せるなら、それが一番だ。アイツだけじゃない、お前も貧乏くじ引かされたってわけだな」
「道理に合わない」
リシアがぴしゃりと言った。
「だとしたら何故私なんだ。ここに来るまでを見ていたなら知っているだろう。下界には、私よりも強い生命がたくさんいる」
「だから単なる偶然だってか。オイオイ、この期に及んで往生際が悪いな。お前らしくもない」
スヴェンが楽しそうに笑う。
「妙な魔法だと思ったことはないか? お前の“ゼファルス”だよ」
リシアがしばらく無表情のまま沈黙して――――目を見開いた。
「“伝承魔法”の真髄は“精霊”の疑似的な顕現だ。ゾルゾディア、レヴィアトール、リベラゼリア、ネフィアゾーラ……レナトゥーラはちょっと例外かもしれねえが、お前の“ジラルディウス”に比べればまだわかりやすいだろ。あぁ、そうそう、“エネロハイム”を司る精霊は“ヘブラネスカ”って名前だ。千年前の戦いの時に一度だけ見たことがあるが、俺の主観じゃ一番カッコいいね」
楽しそうに笑いながら、スヴェンが懐かしむように語る。
リシアは楽しむどころではなかったが。
「で……何なんだ、お前の“翼”は。随分とかけ離れてるじゃねえか、他の“伝承魔法”と」
「……ヒトが勝手に法則を見出しているだけだ。ヒトの常識における“例外”でしかない。“精霊”の力が下界に顕現する際の在り方など、我々が勝手に規定していいものでもないだろう」
「いい加減みっともないぜ。認めろよ、気付いてんだろ、おかしいってことには」
葉巻の先をひょいっとリシアへ向けて、スヴェンがきっぱりと言った。
「“伝承魔法”じゃねえんだよ、それは。似て非なるものだ。もちろん“古代魔法”でもない」
「では何だというんだ」
いらだった様子でリシアが聞いた。スヴェンは特にもったいぶらなかった。
「シルーセンでお前らが出会った“モノ”と同じだ。“ゼファルス”の力の源泉はこの世界に元からいた他の“精霊”たちとは違うモノ。俺やアイツの世界の“神”だか何だかが、下界の理の外に居ついて成立した“異界の力”だ」
リシアが一瞬、呆けたように目を丸くして――――ビキリと、額に青筋を浮かべた。
――――伝承魔法……? 本当に……!? アレはそんな次元じゃ……!――――
「なんで俺がそんなことを知ってるのかと言えば、“奪えなかった”ことで調べたからだ。いや、ちょっと語弊があるか。傀儡の賢者マキナに聞いただけだしな。アイツはホント、何でも知ってて便利だった」
「ッ……“ゼファルス”の継承者は、カイオディウム事変の戦線にはいなかったはずじゃないのか」
「誰がんなこと言ったんだよ」
「ゼルレイン様が――――」
リシアはすぐに気づいた。
ゼルレインが「“ゼファルス”の継承者はカイオディウム事変の折、エルテミナの洗脳に抗って不参加を決め込んでいた」とリシアに話したのは――――『スヴェンが“ゼファルス”を奪っていなかったから』だ。
ゼルレインの読み違い。“ゼファルス”の継承者が戦線にいなかったから奪えなかったのではない。そもそも“ゼファルス”がスヴェンの「殺した相手の力を簒奪する」権能の対象ではなかったから奪えなかったのだ。
オーランドやリシアが“ゼファルス”を受け継いでいることから、血筋の全滅までは免れたものの、その血を受け継ぐ者の一部は間違いなく戦線に出て、スヴェンと戦い敗れているのだ。
「“女神の騎士”になる資格を有するのは異界の民だ。アイツの“譲渡”の力は、その法則を“いくらか”捻じ曲げることができたらしいが……どうやらそれだけじゃ足りなかったみたいだな。“受け取る”側にも親和性が必要だった。“異界の民が持つべき力”への親和性がな」
陰ったリシアの表情と、見開かれた目に宿る恐ろしいほどの怒りの炎は、とてもスヴェン以外の――――“最後の敵”以外の誰にも見せられたものではなかった。これまで彼女と縁を繋いできた人々が今のリシアを見てしまったらきっと、印象を改め、ともすれば失望すらしてしまうかもしれない。
常の彼女からすればあり得ないほどの憤激が、彼女の目と顔に刻み込まれていた。
「偶然か?」
スヴェンが試すように言う。
「アイツがこの世界に来て最初に出会ったのがお前だったことは。世界を救う旅を共に歩んで、縁を繋いで強固に結んで……最後の最後にアイツが『全てを託したい』と思える相手が、『命を投げ出してでも救いたい』と思える相手が“ゼファルス”の継承者であるお前だったことは――――偶然か」
スヴェンがゆらりと立ち上がった。葉巻を持った手を緩く差し出して、憂いを秘めた顔で問いかける。
「アイツがいない今、お前の“理由”は何だ? そんな憔悴しきった顔で、もう動きたくもねえのに重たい体を引きずってここに来て。しかもこれから更に命と心をすり減らすのにふさわしいだけの理由が、今のお前に在るのか? アイツに託されたから? でもそれも、あの性悪ダ女神の手のひらの上らしいが――――それでもいいのか、お前は?」
それは魅力的で、あまりに甘美な問いかけだった。
「似た者同士だ。全部わかってやれるわけじゃねえが、あの頃の俺に鏡を見るだけの余裕があったら、今のお前の表情には見覚えがあったことだろうな。多分そんな顔してただろうからよ」
スヴェンの言葉に偽りの色はなかった。心からリシアに同情しているように見えた。
「意趣返しってやつだ。ただそこで見ているだけでいいのさ。レヴァンチェスカも策に溺れたな。余計なこと考えずアイツに託してりゃ良かったのに、つまらねえ策を弄して……結果、今俺の目の前にいるのはアイツじゃない。女神よりもアイツのことを想う、“総司の相棒”リシア・アリンティアスだ」
リシアの表情は硬直したままだった。
沈黙が流れ、スヴェンはそれ以上何も言わず答えを待った。
リシアの表情が硬直から解放されて――――彼女の顔には、あまりにも情けない泣きそうな笑顔が貼り付いていた。サングラスの奥で、スヴェンが目を丸くした。
「私はな……もう、わからなくなったんだ」
「……何がだ」
「何を憎めば良いのか、だ」
蒼銀の魔力が迸った。今度はスヴェンの魔力を「押し返す」だけではない。
ビキリと、女神の領域の街区に衝撃が走った。
「なあスヴェン、教えてくれ……私は、誰を憎めばいい?」
危険な気配が増していく。リシアの周囲を覆う蒼銀の魔力から、殺意と憎悪が滲み出ている。
「お前さえいなければ、ソウシは“向こうの世界”で平和に暮らしていられたのか」
女神の領域全体に響いていくような、強烈な力。真正面からぶつけられる圧倒的な力を前に、しかしスヴェンはひるまない。
彼女の覚醒を、じっと静寂な眼差しで見据えるのみだった。
「女神さまがアイツを選ばなければ――――あるいはもっと、アイツのことを大事にしてくれれば、死ななくて済んだのか? それとも――――それとも……!」
“ジラルディウス・ゼファルス”が発動し、光機の天翼がリシアの背に出現した。金色の魔力のラインがざあっと蒼銀に取って代わられて、衝撃波が拡散する。
「私が――――私がちゃんと、アイツのことを、もっと! もっと想って、大事にして――――!」
慟哭と、悲愴と、憤怒と、後悔と。
高まる彼女の悲哀に呼応するように、哀しくも美しい蒼銀の輝きが増していく。
「自分のことを大事にするのが当たり前なんだって――――ちゃんと言い聞かせて、説得できていれば――――!!」
「ッ……オイオイ……!」
想定以上の力の増大に、スヴェンが思わず苦笑した。
「私が――――私が無様に死んだりしなければ――――ソウシは死ななくて済んだんだ!!」
何より強くリシアを苛むのは、己への憎悪。
「最初からそういう運命だった」かどうかなんて、どうでもよかった。
女神レヴァンチェスカの敷いたレールの先にこの結末が用意されていて、レブレーベントで総司と出会い共に歩むと決めた時から、この結末に向かって歩くことになっていたのだとしても、“どうでもよかった”。問題は“その後”だ。
長い旅路を共に過ごして、お互いに理解した気になって、結局「何も変えられなかった」ことが。
大いなる運命とやらに滑稽なほど翻弄されて、されっぱなしで、抗い切れず筋書き通りに事を運ばせてしまった自分自身が、誰より何より許せない。
「ただ見ているだけで良いと言ったな、スヴェン!」
ゴウッと風を纏って浮かび上がったリシアが、スヴェンをギラリと睨んだ。リバース・オーダーに魔力が走る。“ジラルディウス”の発動によって出現し、腕に構えた盾を乱暴に外して捨て去った。代わりにレヴァンクロスを引き抜いて、二振りの剣を振りかざす。
「残念だが“それではとても足りない”……! 見ているだけでは足りないんだよ! それではもう収まらない!!」
スヴェンが魔力を解放した。赤と黒の魔力が走って、“ネガゼノス”の気配を纏う。
「最初っから全開か……! 足りねえな“ネガゼノス”だけじゃ……!」
「お前を殺し、その先にいる女神レヴァンチェスカも、私がこの手で斬り殺す!! そしてリスティリアは滅び、私も消える……! アイツをないがしろにして命を奪った原因も遠因も、全部!! 今この場で、私が――――殺し尽くしてやる!!」
ルディラントでの悲劇を経て憎悪の化身と成り果てた、“最後の敵”スヴェン・ディージングを討つのは、世界に望まれ送り出された救世主ではなく。
同じく憎悪の化身へ堕ちた、“女神の騎士”のなれの果て。
悲愴に沈む最終決戦の幕が上がる。